書評

『ルビッチ・タッチ』(国書刊行会)

  • 2022/03/06
ルビッチ・タッチ / ハーマン・G・ワインバーグ
ルビッチ・タッチ
  • 著者:ハーマン・G・ワインバーグ
  • 翻訳:宮本高晴
  • 出版社:国書刊行会
  • 装丁:単行本(532ページ)
  • 発売日:2015-04-20
  • ISBN-10:433605908X
  • ISBN-13:978-4336059086
内容紹介:
映画史上最も洗練された監督、スクリューボール・コメディの神様、エルンスト・ルビッチの魔術的魅力を解き明かす古典的名著、邦訳!

複雑精妙なゲームを愛し、ギリギリで禁忌に触れずにプレイし続けたエルンスト・ルビッチ

エルンスト・ルビッチはソフィスティケイテッド・コメディの王である。スクリューボール・コメディ――30年代から40年代にかけてアメリカで大いに流行したロマンチック・コメディの一ジャンル――という名前を聞いただけで、忌避感を抱く人もいることだろう。スクリューボール・コメディはヘイズ・コードによる映画表現の規制から生まれた。セックスの直接表現が許されないので暗喩として示し、未婚の男女が同衾してはならないので結婚に向けてえんえんと迂回しつづける。それを洗練と呼ぶのである。それは巧妙なゲームであり、ルビッチはそのゲームのもっとも巧みなプレイヤーだ。

回避と迂回のゲームこそ、ハリウッドのもっとも得意とするところだった。どうせ落ち着くところへ落とすだけのことを、何を手間暇かけて引っ張っているのか、と文句を言いたくなるかもしれない。だが、真のアーティストの手にかかれば、それは時間稼ぎでも手間でもなく、ただ純粋な快楽として起こるのだ。

『ニノチカ』(39年)で「ガルボ笑う!」のコピーとともに謹厳実直な共産主義の乙女グレタ・ガルボが登場したとき、最終的に彼女が遊び人のメルヴィン・ダグラスに籠絡されるのはどんな馬鹿にだってわかることだった。だが、どんな馬鹿だろうと、その手際には感嘆の声をあげずにいられない。ニノチカは共産主義の理想を捨てるわけでも資本主義の快楽に誘惑されるわけでもなく、ただ成熟して自己を確立することによって恋愛へと進んでいく。男に従属するのではなく、それまで以上に強くなり、男と対等になることで恋愛を成就させるのだ。そのマジックをルビッチは練達の“ルビッチ・タッチ”で表現する。みっともない帽子を鼻で笑っていたニノチカが、最新モードを着こなすお洒落な女性に変身してゆく過程として。

ルビッチはもちろんその専門家であり、もっとも巧みなプレイヤーである。だがそれはルビッチのほんの一面にすぎない、と『ルビッチ・タッチ』でハーマン・G・ワインバーグは教えてくれる。

ドイツ時代、ルビッチはもともと超大作である歴史劇の作り手だった。『パッション』(19年)はフランス革命を背景にした一大史劇であり、当時世界最大のスペクタクル映画だった。1919年、ウーファにはまだF・W・ムルナウもフリッツ・ラングもいなかった。エミール・ヤニングスをスターにしたのもルビッチだった。「グリフィスを別にすれば、アメリカ映画にはルビッチと肩をならべ得るものはほとんどいなかった」とワインバーグは書く。それから4年後、世界一の監督に自分の映画を作らせたいと考えたメアリー・ピックフォードに招かれて、ルビッチはアメリカにわたる。そこでルビッチがいなくならなければ、ラングやムルナウのキャリアはまったく違うものになっていたかもしれないのだ。

アメリカにわたってから、ルビッチはもっぱらロマンチック・コメディを撮るようになる。それゆえに「偉大なルビッチが才能を無駄にしている」などという批評さえ受けた。スクリューボール・コメディの天才たるルビッチを知っていると、信じがたい思いさえする。コメディのほうがドラマより格下だという思いこみは、世界中どこにでも共通するのである。だが事実はルビッチはなんでも撮れたというだけのことだった。ロマンスでも、歴史劇でも。ルビッチは複雑精妙なゲームを愛し、ギリギリで禁忌に触れずにプレイしつづける。

ワインバーグは書く。「セックスがあたりまえの事象であったヨーロッパにおいては、ルビッチはこの題材をいたってきまじめに、品位をもって扱っていた。ところが、セックスをタブーとして抑圧し、少なくとも表面的には厳格主義を装うアメリカにあっては、ルビッチはおふざけ調を露わにし、アメリカ人観客に(セックスに対する)彼らのしゃちほこばった態度を見せつけ、自らの姿を笑わずにはいられないようにさせたのだった」

つまり、すべてはゲームなのである。それこそが“ルビッチ・タッチ”であり、その手並みに触れられることこそが映画なのだ。まことルビッチこそ映画の君主であった。
ルビッチ・タッチ / ハーマン・G・ワインバーグ
ルビッチ・タッチ
  • 著者:ハーマン・G・ワインバーグ
  • 翻訳:宮本高晴
  • 出版社:国書刊行会
  • 装丁:単行本(532ページ)
  • 発売日:2015-04-20
  • ISBN-10:433605908X
  • ISBN-13:978-4336059086
内容紹介:
映画史上最も洗練された監督、スクリューボール・コメディの神様、エルンスト・ルビッチの魔術的魅力を解き明かす古典的名著、邦訳!

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初出メディア

映画秘宝

映画秘宝 2015年7月号

95年に町山智浩が創刊。娯楽映画に的を絞ったマニア向け映画雑誌。「柳下毅一郎の新刊レビュー」連載中。洋泉社より1,000円+税にて毎月21日発売。Twitter:@eigahiho

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