書評
『彼らは廃馬を撃つ』(白水社)
トッド・ブラウニングが映画化を熱望し、かなわなかった小説
この恐ろしい小説は、ハリウッドの輝きの裏にあったニヒリズム、エゴイズム、サディズムをえぐりだす
ホレス・マッコイの『彼らは廃馬を撃つ』は1930年代ハリウッドのきわめて正確なポートレートである。それはトッド・ブラウニングが映画化を熱望し、かなわなかった小説だ。 1970年、シドニー・ポラックの手により『ひとりぼっちの青春』として映画化された。映画はアカデミー賞(助演男優賞)を含む多くの賞を受賞した。だが、その映画は、原作小説の衝撃を100分の1も伝えられてはいない。物語は衝撃的にはじまる。〈私は立ちあがった。桟橋のそのベンチにすわるグロリアヘー瞬もう一度、目をやった。弾丸は彼女の頭の横に命中した。血は流れもしなかった。拳銃の閃光がいまだにその顔を照らしていた。何もかも真昼のように明白だった〉主人公はグロリアを射殺した罪で裁かれている。物語はその結末にいたる過程をたどっていく。
映画監督をめざしている若者ロバートは、エキストラでもやればフォン・スタンバーグの撮影現場を覗けるかと思ってパラマウント撮影所に出かける。映画監督志望といっても別に助監督でもなんでもなく、ただの失業者にすぎないロバートは、仕事などないと撮影所を追い返された帰り道、偶然、「ぱっとしないエキストラ」のグロリアと出会う。金のない2人にはとくにやることもない。そこでグロリアは友人から聞いた話を思いだす。桟橋でおこなわれるマラソン・ダンスに参加すれば、食事も寝場所も無料で提供されるのだという。グロリアは気乗りのしないロバートをさそってダンスに参加することにする。
「マラソン・ダンスに来るプロデューサーや監督がたくさんいるのよ。そういう人たちに拾われて、映画の役がもらえるかもしれないチャンスがかならずあるわ」
マラソン・ダンスは、実際に大恐慌時代に人気だったイベントである。それは当時のリアリティー・ショーであり、AKB48のような残酷きわまりないエンターテインメントだった。それは男女ペアによる耐久ダンスコンテストである。参加者は何十時間、何百時間と連続してダンスを踊りつづける。疲れてついていけなくなったもの、眠りにおちてしまったものは脱落する。順番に競りおとしていって、最後まで残ったものが優勝となる。大恐慌時代、この無謀な挑戦に挑む者はあとを絶たなかった。そして彼らに声援を送る者も。観客たちはコンテスタントに声援を送った。踊れ、あと一歩、もう一歩だけ、もう一歩だけステップを踏めばおまえの勝ちだ。そうやってダンサーたちはわずかな賞金を求めて不眠不休で踊りつづける。彼らの苦しみこそが観客の喜びなのである。ついに力尽きたダンサーたちが倒れるとき、観客は健闘を讃えて惜しみなく拍手を送る。トッド・ブラウニングは実際にサンタモニカ・ピアーでおこなわれていたマラソン・ダンスの常連ゲストだったという。ヒマな金持ちたちにとって、彼らはローマの闘技場で戦う奴隷剣闘士なのだった。
強い思いもないままに踊りはじめたロバートとグロリアの前にはさまざまな人々があらわれる。臨月にもかかわらず参加しているルビーとジェイムズのベイツ夫妻。イタリア人ダンサーのマリオ。ロバートとグロリアをひいきして応援してくれるレイデン夫人。ひょんなことがきっかけになり、ダンスの人気は爆発する。するとロバートとグロリアが求めていたハリウッド・スターや監督たちがやってくる。フランク・ボーセージが。アリス・フェイが。アニタ・ルイーズが。だが、にもかかわらずグロリアの気は晴れない。
グロリアは最初から厭世観にとりつかれている。ルビーに対しても、ロバートに対しても、レイデン夫人に対してもひたすら敵意をぶつけ、「死んでしまいたい」と言いつづける。彼女の厭世観はやがてロバートにも伝染し、彼も何ひとつ希望を持てなくなっていくのである。憧れだったはずのコネも、有名人も、なぜかそれまでのような輝きをなくしてしまうのだ。
ホレス・マッコイの恐ろしい小説は、ハリウッドという輝きの裏にあったニヒリズムとエゴイズム、サディズムを容赦なくえぐりだしてしまった。そこでは誰ひとり救われることはない。いや、彼らは最初から救われるはずもなかった。『彼らは廃馬を撃つ』の舞台はハリウッドではない。だが、そこに描かれているのはハリウッドそのものなのであり、これこそが最高のハリウッド小説なのである。
映画秘宝 2015年9月号
95年に町山智浩が創刊。娯楽映画に的を絞ったマニア向け映画雑誌。「柳下毅一郎の新刊レビュー」連載中。洋泉社より1,000円+税にて毎月21日発売。Twitter:@eigahiho。
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