書評
『ゼロヴィル』(白水社)
映画の魔力にとりつかれ、映画によって破滅させられる、映画自閉症の男
ヴィカーの剃った頭には彼の脳の左右の葉が刺青されている。一方の葉はエリザベス・テイラーの、もう一方はモンゴメリー・クリフトの極端なクローズアップで占められ、二つの顔はほとんど離れておらず、二人はどこかのテラスで抱きあっている。映画史上、もっとも美しい二人の人間——女は男の女性バージョンであり、男は女の男性バージョンである。
時は1969年、ヴィカーは24歳である。頭にエリザベス・テイラーとモンゴメリー・クリフトの顔を刺青し(それを見せるために当然頭は剃りあげている)、フィラデルフィアから6日間バスに乗り、映画の都ハリウッドへやってきた。そこで出会った最初の男は言う。「それ、俺のいちばん好きな映画だよ……終わりのシーン、最高だよな。プラネタリウムの」
スティーヴ・エリクソンの『ゼロヴィル』は映画に取り憑かれた青年の物語である。といってもヴィカーは誰もが好きなシネフィルではない。彼は映画以外の知識は何ももたない「映画自閉症」である。他人の感情がわからないので人を怒らせてばかりいるが、ジョン・クロムウェルのフィルモグラフィは迷うことなく暗唱できる。ヴィカーの最愛の映画はもちろんテイラーとクリフトが出演した『陽のあたる場所』(52年/監:ジョージ・スティーヴンス)であるが、どこに行ってもみな『理由なき反抗』(55年)のジェームズ・ディーンを刺青しているものと誤解する。ここで! よりによってこの映画の都で! なぜ誰もジェームズ・ディーンとモンゴメリー・クリフトの区別がつかないのか!? だがやがてその該博な知識と特異な感性を理解してくれる友人たち——『陽のあたる場所』で編集を担当した辛辣な老女ドティ、豪放なサーファーでもある脚本家ヴァイキング・マン——のおかげで映画の仕事もはじめるようになる。
『ゼロヴィル』にはさまざまな映画が登場する。実在の映画人こそ登場しないものの——ただし、ヴァイキング・マンにはジョン・ミリアスの風貌が重ねられているようだ——ヴィカーが観に行くさまざまな映画によって物語は語られていく。ヴィカーは世界のすべてを映画によって理解しているので(その中心にはもちろん『陽のあたる場所』がある)、さまざまな映画がそこでは語られる。やがてヴィカーは自分がくりかえし見る夢のことを考えはじめる。それはあるいは映画の1コマなのかもしれない。すべての条理を越えた論理なのだが、それは真実なのである。なぜなら、映画の中には世界のはじまりから存在していたようなものがあるからだ……。
『ゼロヴィル』は映画にとりつかれた男についての話であり、映画そのものについての話である。つまりそれは映画の魔性についての話だ。映画の本質とは魔、まがまがしいもの、ありえざる世界へ人を誘う魔性の存在なのだということである。セオドア・ローザックの『フリッカー、あるいは映画の魔』(文春文庫)がまさにそう語ったように。ヴィカーは映画に救われ、もちろん映画によって破滅させられる。だがその過程はそれだけでひとつの映画となるのである。
小説にはさまざまな映画にまつわるエピソードが登場する。ぼくがいちばん好きなのはかつて反フランコ闘争を戦ったゲリラ戦士だった男が語る話である。男はある夜、夢でルイス・ブニュエルから話しかけられる。夢のブニュエルは、ゲリラ戦士に世界中の人々の正義と自由を勝ち取るか、シルヴィア・クリステルと1回ファックするか、どちらかを選べと迫る。その瞬間、男は悟るのだ。
私は真実とともに目覚めたのです、ムッシュー、私は、ミス・シルヴィア・クリステルと一度ファックするチャンスのために世界中の抑圧された大衆の自由と正義を引き替えにする人間なのだと。そして目覚めとともに訪れたこの真実を、私は永久に、実際に一度もミス・シルヴィア・クリステルとファックしたことなく抱えて生きないといけない——言うまでもなく、それこそが悲劇なのです。
その残酷な真実を突きつける力こそ、言うまでもなく映画の無慈悲なる魅惑なのである。
映画秘宝 2016年7月号
95年に町山智浩が創刊。娯楽映画に的を絞ったマニア向け映画雑誌。「柳下毅一郎の新刊レビュー」連載中。洋泉社より1,000円+税にて毎月21日発売。Twitter:@eigahiho。
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