自著解説
『源氏物語 1 定家本』(八木書店出版部)
加賀前田家伝来、平安文学の至宝
「天下の書府」を継承する尊経閣文庫の蔵書
加賀百万石前田家は、江戸時代に「天下の書府」と讃えられていました。その豊かな蔵書を継承する尊経閣文庫は、現在国宝・重文約100点を誇る最上級の文化施設です。質の高さだけてはありません。蔵書の範囲も瞠目に値し、日本のみならず中国・朝鮮半島の書物からヨーロッパの貴重資料に及びます。我が国に関わる収蔵品に限っても、国文学・国史学・漢文学・美術工芸などの諸分野において、最善本あるいは最古伝本として尊経閣文庫所蔵資料を用いる事例は、枚挙に暇がありません。
そして戦前に行われた尊経閣叢刊は、複製の優品として現在も高く評価されていますが、今回の善本影印集成はそれを遙かに凌駕する撮影技術と高精細の印刷を駆使して、原本のありようを細部まで再現しています。文学・語学・書道史等に関する有益な学術資料としての活用は勿論、書物の風格や筆跡の魅力などを実感し、日本文化への理解を深めていただく機縁となることも、この集成刊行の目的です。解説は、原本の子細な調査検討によって考察の基礎を提供すると同時に、今後の研究に様々な示唆を与えるものとなっています。
文学史上の奇跡
平安時代は、古今和歌集・竹取物語・蜻蛉日記など千年を超えてなお輝き続ける古典文学を生み出しました。これらに関連文献までも加えるならば、尊経閣文庫所蔵資料のみにても汗牛充棟、全てを紹介出来るものではありません。今回の集成(第12輯全10冊)では、土佐日記・源氏物語と重要古注釈若干・枕草子を選んで影印します。他にも韻文・散文の分野にわたって重要古典籍は多数ありますが、結局公刊は断念せざるを得ませんでした。その分、選ばれた書物は、希覯本揃いの尊経閣文庫にあっても特に高い価値を持つと言えるでしょう。まず土佐日記(国宝)は、藤原定家(1162~1241)の書写にかかるとされ、現存最古写本であるばかりでなく、紀貫之自筆原本の書誌的記述や貫之の筆跡を模写した部分などは、かけがえのない資料となっています。今回の精密な影印によって、得られる知見が多くあります。また源氏物語と重要古注釈は、定家本源氏物語(重要文化財)を除けば初めて影印公刊される典籍であり、翻刻では知り得なかった原本の細部や書誌学的事実が確かめられる点に、大きな価値があるでしょう。前田家本として名高い枕草子(重要文化財)も、本文は勿論、合点・補入・細字傍書にいたるまで鮮明に読み取ることが出来、利用の便を考慮して章段名を明記し解説に新見を盛るなどの工夫が凝らされています。文学史上の奇跡であり偉観であるこれらの古典を研究する時、不可欠の基盤となる集成です。

源氏物語定家本の真価
青表紙原本と呼ばれる花散里・柏木の2帖は、数多くの源氏物語古写本の内、書写時期が一定範囲に絞り込める最古伝本です。柏木の冒頭部分を定家自身が書写し、その末尾に自らの注が書き入れられていることでもよく知られています。いわゆる第一次奥入です。すでに一度影印複製が刊行されていますけれども、今回はそれを格段に上回る精度で原本を再現しています。花散里と柏木の大半は定家の筆跡に似た他筆によって書かれ、僚巻には若紫・花散里・行幸・早蕨の4帖が知られており、ある時期までは若紫・花散里・行幸・柏木が纏まって保管されていたと考えられます。原本の調査により、多数の重ね書き・補筆・訂正などが確認されており、それらは高精細の影印によって目視可能です。
興味を引くのは、柏木の帖において定家筆の箇所には本文に関わる訂正や補筆等がなく、それらは他筆の部分に多くみられる現象です。これは、定家と書き継ぎを担当した人物との間に書写あるいは読解能力において大きな力量の差があったことを意味するのでしょう。しかも結果として本文上の不備を訂正していますので、定家が最終的に認めた本文が現在の柏木であると考えられます。
また筆跡や仮名表記から定家晩年の監督書写によって成立した本文と見てよいでしょうが、書写のありようから判断しても、柏木巻末付載の奥入は決して第一次と言われる資料ではなく、むしろ後発の注と判断すべきです。解説では、原本の持つ多彩で複雑な要素のごく一部分に触れ得たのみ。影印公刊を機縁として、さまざまな研究が展開することを切望します。書物は、ほとんど全ての研究の出発点となる存在ですから。
[書き手]
尊経閣善本影印集成第12輯編集委員(高田信敬・伊倉史人・久保木秀夫)
ALL REVIEWSをフォローする



































