不思議な由緒書と途切れた花押
1 古文書に親しむ
休みの日に出かけた博物館の展覧会で「古文書」が展示されていたとしよう。解説を軽く読んで、古文書の現物と活字に直された漢字の羅列を「チラ見」して次へ進む。全てをじっくり見ていたら疲れてしまうし、なによりくずし字が読めなかったり、内容がわからなかったりするのだから、こういう見方をするのは自然なことだ。古文書は文字で書かれているがゆえに寡黙である。もしあなたがそのような寡黙な古文書に親しみたいと考えているならば、「謎解き」をしてみるのはどうだろう。例えば、なぜ展示されているのか、どのように伝わってきたのかという謎を設定してみる。古文書の謎は多様であり、その多様な謎を解こうとする時、多様な面白さが生まれる。
博物館展示以外で古文書に親しむ方法としては、「古文書集」(古文書を収録した書籍)を見るというものがある。古文書集の中でも元の古文書の写真を収録した「影印本」にはより多くの謎が残る。ここでは八木書店出版部から刊行・完結した影印本のシリーズ「尊経閣善本影印集成 第10輯 古文書(全12冊。未公開を含む約2500点の古代~近世史料を高精細フルカラーで収録。以下、本集成とする)」の中から、2点の古文書とその謎に注目し、古文書に親しむ一例としたい。
2 不思議な由緒書(「北野社四府商人宛行状案(後闕)」『尊経閣古文書纂 編年雑纂文書4』未定文書 波9)
①なぜ疑わしい古文書が今日まで伝わったか?
土地や職(しき・職務とそれに付随する収益)を給付する際に出される文書を宛行状(あておこないじょう)という。最初に取り上げる古文書は、古くは「四府(しふ)」(左・右の近衛・兵衛府)に属して北野社の神輿を担ぎ、課役免除の特権を活かして諸商売を営んだ「四府駕輿丁座(しふかよちょうざ)」の主張・権利を認める宛行状兼由緒書の写(うつし)だ(以下、本由緒書とする)。内容としては、a醍醐天皇(延喜御門)の治世の称賛、b菅原道真の配流と大廟の建立、c四府駕輿丁の奉仕と日本国内の商品販売権独占の主張、d「梅は飛び桜は枯るる世の中に 何とて松はつれなかるらん」(中世後期以降に見られる菅原道真仮託和歌)が記されるが、cなどは非現実的な主張で明らかに疑わしい。仮に本由緒書が擬文書(内容が疑わしい古文書)であるとして、なぜ切って捨てられることなく今日まで伝わっているのか。
②職人の由緒書と宛行状案の伝来
網野善彦が述べた通り、室町期~戦国期の職人(商工業者)は、訴訟を有利に導くため、ある程度の正当性をもとに天皇との関係を強調した由緒書を作成した。また盛田嘉徳によれば、これらの由緒書に類する「河原巻物」と呼ばれる擬文書には、醍醐天皇がたびたび登場する。本由緒書もそのような職人の由緒書の系譜に位置づくものであると考えるべきだろう。では、本由緒書を伝えた人々は、内容の信憑性についてどう捉えられてきたか。職人の由緒書は通常、権利を主張する家や共同体に伝来することが多い。ところが、本由緒書は四府駕輿丁座の本所(ほんじょ・上級の権利所有者)である公家(中原家・壬生家)を経て、前田家に伝わるという稀有な伝来過程を持つ(本集成「解説」参照)。端裏(古文書の右端の裏)には、本由緒書が写であり、後々清書をするべきことが記されている(本集成「書誌一覧」参照)ものの、この文言がどの段階で記されたか、清書がなされかについて今は分からない。本由緒書が今日まで伝来したのは、記された内容が公家や前田家にとっても無視できないものであったためと考えられるが、社会的に広く影響を及ぼした職人の由緒書の例として重要な研究対象だといえる。
3 途切れた花押(国宝「三朝宸翰」『尊経閣古文書纂 編年雑纂文書5 付宸翰文書類』 宸翰文書1~23)
①なぜ消息は切断されたか?
二番目に取り上げる古文書は国宝「三朝宸翰」である。三人の天皇・院(伏見・花園・後醍醐)による24通の宸翰(天皇直筆の消息〈=手紙〉。ここでは院のものも含む)を2巻の巻子(かんす)として整理したものだ。ここで取り上げるのは「三朝宸翰」所収の花園上皇消息で、一歳年下の異母弟尊円入道親王(1298~1356。延暦寺三門跡の一つ青蓮院の門主を務めた)に送られたものである。内容に目を向けると、楠木正成の再挙と活動の活発化、それに対する不安が綴られ、鎌倉時代末期正慶元年(1332)のものとわかる。料紙(りょうし・古文書が記された紙)や文字に目を向けると、天地(上・下端)の料紙の色に比べて中央部分のそれは明るいこと、末尾の日付の下方に据えられた花押(かおう・自署を図案化したもの)の下半分が欠けていることに気づく。これらの特徴は「三朝宸翰」所収の他の消息(花押ではなく自署の場合も含む)でも同じだ。なぜこのようなことが起きているのか。
②「三朝宸翰」の伝来過程と性格変化
羽田聡は元の料紙の天地が切断されたこと、紙を継ぎ足して欠けた文字を補った箇所があることを指摘する。花押・自署だけではなく、本文の文字も料紙の切断によって欠けたというのだ。ならばなぜ消息は切断されたのか、なぜ文字は補筆され、花押・自署は補筆されなかったのか。以下本集成「解説」および先行研究によりつつ、「三朝宸翰」の伝来過程と性格変化の歴史を整理する。消息重視の時期: 「三朝宸翰」にはいずれも青蓮院の門主(あるいは前門主)に対して送られたという共通点がある。消息が出された時期は1310~30年代で、これらはその後青蓮院に伝来したと考えられている。当然、天皇・院から青蓮院門主に送られた消息として重視されただろう。
法華経重視の時期: 「三朝宸翰」には裏面に法華経が摺られた消息経(故人の消息の裏面に経文を書き・摺るなどして菩提を弔うもの)だったという共通点もある。消息経を作成する際には巻子にするため料紙の天地を揃える必要があり、消息が切断されたのはこの時期だ。法華経の側が重視された結果ともいえよう。消息経の作成者は尊円入道親王で、消息経はその後青蓮院に伝来する。
消息と法華経との分離: 現在の「三朝宸翰」の裏面には法華経が見られない。これは青蓮院に消息経が伝来したことが確実視される天文11年(1542)からさほど降らない時期に相剥ぎ(あいはぎ・1枚の紙を薄く剥いで2枚にすること)され、消息の面と法華経の面とが分離したためと考えられている。
再浮上する消息: 分離した消息の一部を入手した公家の近衛前久(1536~1612)は、花園上皇消息12通、後醍醐天皇および伏見天皇消息12通に識語(来歴について書き記した文章)を加えてそれぞれ巻子とした。そして前田綱紀(1643~1724)の蒐集を経て加賀前田家に伝来する。
③補えるもの、補えないもの
花押・自署や文字が切断された消息に紙を継ぎ足し、多くの文字を書き加えた修復者が誰なのかははっきりしない。しかし、その修復者は文字を復元し、花押・自署は復元しなかった(あるいはできなかった)。佐藤進一は花押について、個別独自性を示すことで花押を署した人が本人に間違いないことを示すものと述べた。そのような意識を共有する人ならば、補筆することを躊躇してもおかしくないし、補筆することでかえってその本人性・真実性を損なうと考えたかもしれない。この謎は解けたわけではない。けれども、私たちが古文書の多様な謎を解こうとする時、古文書はその来歴に関わった人びとの存在や人びとの意思を、実は雄弁に語っているように思う。
[書き手]
佐々木 創(ささき はじめ)
1976年生。福島県会津若松市出身。
2007年武蔵大学大学院博士後期課程単位取得退学
その後、武蔵大学総合研究所奨励研究員、かわさき市民アカデミー講師などを経て
現在、共立女子短期大学、京都芸術大学非常勤講師
専門は日本中世史、日本文化史
[主な業績]
・共著:瀬田勝哉編『変貌する北野天満宮 ―中世後期の神仏の世界―』(平凡社、2015年)
・企画委員:「北野天満宮 信仰と名宝 ―天神さんの源流―」(京都文化博物館、2019年)
・特別講座:「葛藤から考える日本文化史」(かわさき市民アカデミー、2022年)
・企画委員:「松尾大社展 ―みやこの西の守護神―」(京都文化博物館・鳥取市歴史博物館、2024年)