平安時代に中国へ渡った密航僧が見聞きした旅日記を読む
『参天台五臺山記』の著者・成尋とは
『参天台五臺山記』(さんてんだいごだいさんき。以下、『参記』と略称)は成尋(じょうじん。1013~81)の渡海日記である。成尋は天台宗寺門派(入唐求法僧智証大師円珍に発する一派で、園城寺〔三井寺〕が本寺)、延暦寺阿闍梨の称号を取得、京都岩倉の大雲寺の寺主であり、藤原頼通の子で次代の摂関家を担う左大臣師実の護持僧を勤め、後冷泉天皇(在位1045~68)の病気平癒の祈禱にも招かれる高位の僧であった。60歳の高齢で中国に渡る決意を
『参記』はこの成尋が日本の仏教界で栄達を極めた後、延久4年(1072=宋・煕寧五)に60歳で宋(北宋)代の中国に渡航し、その書名の通りに、天台宗の本山である天台山や文殊信仰の聖地五臺山を巡礼する旅の様子を記したものである。成尋は宋に滞留し、永保元年(1081=元豊4)に首都開封(河南省開封市)で死去したが、同行して先行帰国した弟子たちが詳細な渡宋記録である『参記』8巻を日本に持ち帰っている。成尋のような高位の僧侶・教学的に完成された人物が、60歳という年齢で中国に渡航するのは異例中の異例であり、成尋の熱望・決断に注目しておきたい。
寛平6年(894)菅原道真の建議により遣唐使派遣計画に再検討が求められ、延喜7年(907)には唐そのものが滅亡しているから、日中関係を代表する遣唐使の時代は既に終わっていた。五代十国の混乱期を経て成立した宋に対して、日本は公的通交を行わなかったので、当該期の日中関係は一般にはイメージが希薄であるが、遣唐使事業の末期・終了後にこそ、唐・宋商人(商客、海商)の来航が盛んになり、彼我往来はむしろ頻繁になるのである。成尋は入宋後、首都開封で皇帝と謁見しており、その時の様子が『参記』に記されている。また宋に対する国際意識を『参記』の中に探ることも可能である。したがって遣唐使に比べて研究が不足する日宋関係を考究する上で、『参記』もまた、稀有の考察材料を呈する史料と位置づけることができると思われる。
日記の見どころ
『参記』の内容の要点を、私なりの読み所も含めて、もう少し詳しく整理すると、次の通りである(旧暦には月の大小があり、大月は30日、小月は29日である)。巻1 延久4年(1072=宋・煕寧5)3月15日~6月4日
肥前国松浦郡壁島を出発し、入宋を果たす。一行は成尋と随行の弟子たち、頼縁供奉・快宗供奉・聖秀・惟観・心賢・善久・長明、の計8人であった。宋への入国後は杭州の繁盛の様子、天台山国清寺に赴く途次の運河交通の情景などが描かれ、また中国への入国、国内旅行のための手続きも知られる。国清寺到着(5月13日)後は、諸伽藍を巡礼しており、天台山の様子が詳しく記されている。
巻2 同年6月5日~閏7月29日
五臺山巡礼申請のための交渉の様子、国清寺滞在中の諸僧との学問的交流、また天台県や台州の役人との教理上の問答(法門問答)と経典の貸与を通じた交わりなどが描かれている。五臺山巡礼が許可され、しかも京師(首都開封)において皇帝との面謁も指示されたので、勅旨による上京ということで、以後の旅行に大いに便宜を得ることができた。
巻3 同年8月1日~10月10日
国清寺を出発し、京師に赴く旅程を記す。運河の通行の様子、途次での人々との交流の諸相が描かれている。途中で見た葬儀の様子、象の見物など、興味深い記事が存する。
巻4 同年10月11日~10月30日
京師に到着し、太平興国寺伝法院を宿所とする。その後、皇帝に謁見し、五臺山参詣の許可を得ることができた。皇帝との面見の式次第・作法が細かく記されている点や日本の国情についての質問を受け、答弁している場面は重要な考察材料になる。五臺山行きまでの間、京師の諸寺を巡覧し、院内の高名な僧侶と交流・諸文献の貸借を行っており、学問的研鑽にも努めている様子が知られる。
巻5 同年11月1日~12月30日
厳寒の時期の五臺山巡礼は堪え難いとして参詣延期を忠告されるが、早く登山したいと思い、待望の五臺山巡礼を成し遂げる。当該期の五臺山の様子を知る貴重な記録となる部分であり、文殊菩薩への献納品には日本の諸貴族と成尋との関係を窺わせる記述も存する。
巻6 延久5年(1073=宋・煕寧6)正月1日~2月29日
五臺山巡礼を遂げ、京師帰還後の太平興国寺伝法院における人々との交流が記されている。その当時新訳経の開板が進行しており、その翻訳に携わった僧侶の名前も登場する。一方で、成尋とともに入宋した随行者のうちの5人の僧侶(頼縁供奉・快宗供奉・惟観・心賢・善久)が先行帰国する準備を進め、日本に送る求得の品々の選択作業も行われており、5人は2月8日に京師を出発した。
巻7 同年3月1日~3月30日
宋の朝廷での祈雨への従事と、その成功・皇帝からの褒賞の様子(善慧大師号賜与など)が描かれている。また訳経場を見学しており、訳経の手順を知る史料としても貴重である。成尋はこの新訳経を日本に将来しようとし、皇帝から許可を得ることができた。
巻8 同年4月1日~6月12日
京師を離れて、天台山に戻る準備の様子、下向の旅程が記されている。新訳経の印刷の進捗・下賜を待って、明州に赴き、この新訳経を帰国する五人の弟子に託した。6月12日に5人の出発を見送る(成尋と聖秀・長明は宋に残る)ところで『参記』は終わるが、正月23日に預けた『入唐日記』8巻を整理・追加し、最終的に『参天台五臺山記』8巻に仕立てたものを、この時に付託したと考えられる。

『参記』の本文については上掲のようにいくつかの活字本があるが、本書『渡海僧がみた宋代中国―『参天台五臺山記』を読む』では東福寺本の複製本を利用して、史料纂集古記録編の1冊として刊行した『参天台五臺山記』第1(八木書店、2023年)の本文に依拠しつつ、またそれに基づき作成した読み下し文(同第2)をもとに、概要を紹介することにしたい。
[書き手]
森 公章(もり きみゆき)
東洋大学教授、博士(文学)
[主な著作]
『渡海僧がみた宋代中国―『参天台五臺山記』を読む―』(八木書店、2023年)
『史料纂集 参天台五臺山記』第一・第二(八木書店、2023年)
『倭国の政治体制と対外関係』(吉川弘文館、2023年)
『地方豪族の世界』(筑摩書房、2023年)
『古代郡司と郡的世界の実像』(同成社、2024年)
『平安時代の国衙機構と地方政治』(吉川弘文館、2024年)他多数。