江戸幕府が編纂した二代将軍秀忠の事績録
『東武実録』とは
『東武実録』は、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の事蹟録である。といっても秀忠の全生涯の事蹟を網羅したものではなく、記述の期間は大御所家康が死去した元和2年(1616)の元日から、秀忠が死去した年寛永9年(1632)の12月までの17年間である(本書「第一」は寛永4年12月まで)。よって本書の対象は、まさに秀忠が幕府の最高実力者として君臨した時代ということができる。この間、秀忠(本書では「公」と記される)および将軍就任後の家光(同じく「将軍家」)の動静を軸に、諸大名・旗本などの官位叙任、加増、転封、幕府役職への就任、死去(多くは享年が付される)、そのほか大小の事件・出来事が年月日の順に記されている。底本(国立公文書館〔旧内閣文庫〕所蔵本)の書体は、幕府法令などの引用史料こそ行書体であるが、基本的には片仮名交じりの楷書体で叙述されており、その意味では読解は一部をのぞけば全体に容易である。今回史料纂集で刊行するに際しては、人名や地名などの傍注や、内容を要約した標出(頭注)をつけるなど、読みやすく編集した。
本書の特長
いま、「幕府法令などの引用史料」と書いたが、随所に見られるそうした引用史料の存在こそが本書の大きな特長ということができる。たとえば幕府法令では、幾度も発布されるいわゆる撰銭禁令や一季居禁令、日光社参や上洛への供奉法度、奥方の整備過程を示す法度その他があり、また大名改易のときに出された年寄衆(老中)の連署状や諸条目などが、ほぼ原文のまま収められている。なかでも元和5年(1619)6月の安芸広島城主福島正則の改易においては、7通の年寄衆連署状やその他の関連文書が収められており、福島改易事件の真相を探るうえでの有益な史料群となっている。本書の成立は貞享元年(1684)12月であり、秀忠が生きた時代からは半世紀以上も後のことになる。その意味では本書が「二次史料」であることは否めない。しかし、こうした同時代に作成された数多くの一次史料の引用が、本書『東武実録』の史料価値を高めているといえるのである。このほかにも、そうした点のいくつかを記してみよう。寛永3年(1629)9月、秀忠は家光とともに上洛し、後水尾天皇を京都二条城に迎えた。いわゆる後水尾天皇の「二条行幸」である。これに関する記事は本書ではじつに88頁を費やしている。この部分は「寛永行幸記」をほぼそのまま引用したものではあるが、この「寛永行幸記」は未刊であるから、その意味では今回はじめて翻刻されたことになる。また同じ寛永3年10月に行われた、秀忠の正室お江与(崇源院)の葬儀における葬列の様子も、他の史料には見られないほどの詳細な記述となっている。
記述の具体例
筆者の関心に引きつけていえば、秀忠の不肖の息子徳川忠長が寛永元年(1623)8月に駿河・遠江・甲斐・信濃で50万石を拝領した際に出された領知目録や、忠長が駿府に初入国(同2年11月)したときに家光が忠長に宛てた御内書なども、やはり他の史料にはまったく見られないものである。さらに寛永3年に秀忠が上洛した際、秀忠に供奉した家臣団の全貌が知れるのも本書だけである。しかもそこでは、当時の職名とその就任者名、一人ひとりの知行高までもが記されており、これに『寛永諸家系図伝』などの系譜史料とを照合することで、幕府職制や家臣団研究が大いに進展することは間違いない。拙稿「幕府直轄軍団の形成」(山本博文編『新しい近世史』1、新人物往来社、1996)もこの成果の一部である。また本書「第二」の収録になるが、寛永9年正月に秀忠が死去した際、秀忠の遺産の金銀が、親族縁者はもとより諸大名以下幕府家臣団の末端にいたるまでに分配されていた。これには記述のもとになる底本があったらしく、一部が金地院崇伝の『本光国師日記』に引用されているが、全貌が知れるのはやはり本書のみで、ここでも役職ごとの就任者名とその知行高および遺産の分配額などが明らかになるのである。秀忠や家光は、とくに秀忠の大御所時代になるとさかんに大名邸に御成を行い、また自分たちの住む江戸城西丸(秀忠)や本丸(家光)に諸大名を招き、数寄(茶の湯)が催され能(猿楽)が興行されていた。本書でも関連記事が頻繁に登場し、そこでは茶の湯の様子や相伴にあずかった大名の名はもとより、茶の湯に使われた諸道具、能の演目と演者が記されている。これなどは本書が秀忠の政治的な事蹟だけではなく、当該期の芸能・文化史研究にも裨益するところ大といえるであろう。
利用と今後の展開
繰り返しになるが、本書『東武実録』は後世に編纂された、いわゆる「二次史料」である。よって、同時代に作成された一次史料と同等の価値を認めることはできない。しかし、むしろ本書を基本的な軸に据え、系譜史料はもとより、『本光国師日記』『梅津政景日記』「松平忠利日記」といった記録史料や、大名家に残された書状類などと照合することで、秀忠時代の政治・社会・文化などの具体像がより鮮明に描けるものと考えられるのである。最後に、本書に人名索引が付けられれば、その利用価値は格段に増すだろうことを記しておきたい。[書き手]
小池 進(こいけ すすむ)
1960年千葉県に生まれる
2000年東洋大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)
現在 東洋大学非常勤講師・聖徳大学兼任講師
[主な著作]
『静岡県史』通史編3近世一(共著、静岡県、1996年)
『江戸幕府直轄軍団の形成』(単著、吉川弘文館、2001年)
『人物叢書 保科正之』(単著、吉川弘文館、2017年)
『徳川忠長』(単著、吉川弘文館、2021年)
『きょうだいの日本史』(共著、吉川弘文館、2024年)