書評
『不良番長 浪漫アルバム』(徳間書店)
東映の不良番長シリーズは、達人たちが遊び尽くした映画破壊活動だった!
「不良番長」シリーズは、梅宮辰夫=神坂弘をリーダーにした不良バイカー集団〈カポネ団〉の活躍を描くエロコメディ・アクションであり、1968年の第1作『不良番長』から1972年の最終作『不良番長 骨までしゃぶれ』まで全16作も作られた人気シリーズである。実に16作というのは東映のシリーズものでは最長なのだという。以前、佐々木浩久監督と高橋洋脚本という『発狂する唇』(00年)コンビで、シリーズの復活を考えたことがあるのだそうな。梅宮辰夫と山城新伍さえくどきおとせば、あとのキャストなどなんとでもなるだろう。ハチャメチャな
ギャグが売り物のシリーズだったのだから、荒唐無稽なストーリーもベタすぎる下ネタ(どちらも『発狂~』でおなじみのところ)もおまかせである。なんでも北朝鮮に行ってひょんなことから金正日をぶん殴って……みたいな『チーム★アメリカ/ワールドポリス』(04年)を先取りしたようなストーリーを考えていたらしい。それで、実際に企画を作りあげるためにはちゃんと観直さなければならない。とシリーズを観直して……あまりにくだらないので、こりゃダメだ………となってしまったのだという。
「不良番長」というのはそういうものなのである。もともと梅宮辰夫の都会的な軽さを活かした軽いコメディとしてはじまったのだが、もともとがナンセンス志向だったうえに、4作目から参加することになった内藤誠監督のアヴァンギャルド趣味が加わり、破壊的なギャグが連発されるようになっていく。山城新伍は好き放題アドリブをかまし、写真のなかから現実に突っ込みが入り、梅宮辰夫は画面から観客に向かって話しかけ、脇役は「そろそろ死ぬ時間だから」と言い訳をして死んでゆく。杉作J太郎氏の言葉を借りれば「『不良番長』は映画破壊活動だ!」なのである。「映画を作る人がいる一方で映画を壊しまくっている人がいるっていうね」壊しに壊し、壊し尽くしてもう何もなくなった。
さて、そのシリーズの研究書がついに登場したのである。いや、最初にこの話を聞いたときには、失礼にも「え、『不良番長』で1冊本を作るほどのネタがあるの?」と訊ねてしまった。もちろんある。いや、むしろそうしたものであるからこそ、この本は重要なのだとさえ言えるのかもしれない。本書には梅宮辰夫を筆頭に、出演者やスタッフらのインタビューが掲載されている。初期のレギュラーだった谷隼人、第9作『暴走バギー団』(70年)のヒロイン・カルーセル麻紀、第12作『手八丁口八』(71年)に出演したフラワー・メグ、〈カポネ団〉の団員としてレギュラー出演していた鈴木ヤスシといった面々だ。彼らが異口同音に語るのは、このシリーズがいかにデタラメに作られていたかということである。「とにかく気苦労がありませんでしたね~。"セリフを明日までに覚えなきゃ"とか"これをやっておかなくちゃ"っていうようなことは何もなし!」(鈴木ヤスシ)
プロデューサーの吉田達は製作費を稼ぐためにロケ現場でいちいち細かいタイアップを取ってくる。飴屋に飛び込みで入って「飴を食べてるシーンを入れるから五万円出してくれ」といった調子で交渉するのである。結果「(カポネ団の配役は)そこまで真剣には観てなかった」と告白する羽目になる。地方囗ケには男女を同数にする決まりがあったとか、それで女優がこのシリーズに出たがらないようになったので、カルーセル麻紀がヒロインに呼ばれたのだ……とか、あながち嘘ばかりではなさそうな話が次から次へと出てくる。つまり、あるレベルではこれは観たままの映画破壊活動であったわけだ。
そのいっぽうで、それは決してただの手抜きだけではなかった。その手抜き――いわば達人の脱力、あえて手を抜いてみせることによる軽みを目指すようなものだというべきだろうか。この時代は梅宮辰夫にとっても、東映という会社にとってもひとつの転機だった。それまでジゴロ役専門だった梅宮は、セルフ・パロディのような役で自分のイメージを破壊したあと、TVの「前略おふくろ様」(75~77年日本テレビ系列)以降料理タレント、親しまれる潰け物屋へと華麗な転身を遂げる。東映のもっとも東映らしい映画、不良性感度映画の時代が終わりつつあることを悟っていたかのように。その一瞬の軽み――プロ中のプロである撮影所の人々が思いっきり遊んでみせた凄み――がそこにはとらえられているようにも感じられるのだ。
映画秘宝 2017年7月
95年に町山智浩が創刊。娯楽映画に的を絞ったマニア向け映画雑誌。「柳下毅一郎の新刊レビュー」連載中。洋泉社より1,000円+税にて毎月21日発売。Twitter:@eigahiho。
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