まえがき
もし、あなたがいま、この本を書店の店頭で立ち読みしているのなら、本書のもくろみのいくらかはすでに達成されたということになる。『立ち読みの歴史』を立ち読みする人がいる、こんなに愉快なことがあるだろうか?筆者のもくろみの片棒を担いでくれたあなたに、まずは感謝したい。
そのうえで、本書がどのような性質の書物であるのか、以下簡単に紹介しておきたい。
■ この本からなにがわかるのか
そもそも、近代出版史は謎が多く、未解明の問題が数多くある研究分野である。例えば、書店に入ったら本が本棚に並んでいるだろう。それを自由に手に取って選ぶ楽 しみが我々、顧客にある。けれども江戸時代の本屋では、基本的に本は蔵にしまってあり、店員に出してもらって買うことになっていた。では、本屋の本棚はいつ、どのようにして日本で広まったのだろうか? 明治時代なのか大正時代なのか? そもそも入店するには履物を脱がないといけないのが江戸時代のお店だった。では、土足で入れるようになったのはいつ頃か?
あるいは、現在の書店でコミックはシュリンクパックされていることが多い。これは立ち読み対策だろうということはなんとなくわかるが、では誰がいつ導入して、どのように広まっていったのだろうか?
こういった当たり前すぎることに疑問を立てて解き明かそうとしたのが本書である。
■ 「調べる技術」を実践したら……
筆者は国立国会図書館で15年にわたりレファレンス(調べ物相談)を担当していたが、利用者からは実にさまざまな質問が寄せられた。そして、そのほとんど全部が、東ローマ帝国史という私の旧専攻と無関係の事柄で、自分の知らないことばかり調べる技術が身についた。そして、この何でも調べられるという特技を『調べる技術』(皓星社、二〇二二)という本にまとめたところ、3万部を超すヒットになり、自分でも驚いた。本書は、その「調べ方」を自分が調べたいことに使った成果であり、その意味で『調べる技術』の姉妹編、実践編と言えるだろう。
私の現在の専門は、日本近代の読書史、出版史、古本屋史、古本受容史、愛書趣味史、図書館のリスク管理史、蔵書構成史、レファレンス・サービス史、国立図書館史、プラモデルの受容史……こう書き出してみると、「専門」どころでなく、なかなかとっ散らかしているのだが、これらの端々に登場する「立ち読み」という営みについて、その誕生から現在までを追ったのが本書ということになる。模型店店頭でプラモのパッケージを眺めるのも、ある種の立ち読みなのだ。
■ 読書の近代は意外と最近
立ち読みの歴史を語る上で最大の問題は、いつ頃、どのようにしてこの習慣が始まったのか、ということがわからないことである。この問題を明らかにするためには、今現在に残されている資料(証拠)から、仮説と検証を繰り返して探っていくことになる。例えば、江戸時代の人たちは本を読む場合、音読がデフォルトだったことがわかっている(前田愛『近代読者の成立』岩波書店、二〇〇一)。特に庶民はそうだったはずで、黙読を基本とする現在の立ち読みスタイルは成立しづらいことが想定できる。
また江戸時代、都市の庶民は読み書きができたが、農村の農民はまだだった。女性も含め、みんなが読み書きできるようになったのは明治の末である。書物の文明開化が一般大衆に及ぶのに半世紀が必要だったわけである。
だから大正期のある漁村で、小卒の子どもが村内いちばんのリテラシーとなり、本持ちの物語好きおばあさんに、本を代読してあげる、などという今では考えられない現象もあった(川島秀一『「本読み」の民俗誌:交叉する文字と語り』勉誠出版、二〇二〇)。
また、江戸時代はおろか明治に入ってからも、書店の販売方式は現在のような陳列販売(開架)ではなく「座売り」(閉架)だった。立ち読みは物理的にできないのである。
そもそも、和本(和装本)は平積みにするもので、縦に置けないことは「帙」(ちつ)(和本用のケース)の存在からも明らかである。棚に差してある冊子1冊をアトランダムに出し入れする、という行為を和本は想定していない。新刊本の大半が今の形(いわゆる「洋装本」ないし「洋本」)になったのが明治一九(一八八六)年頃だが、洋装本も初期は平置きにしていた。1冊を手軽に出し入れできるタテ置きは、どうやら明治三〇年代に始まった習慣らしい(書物蔵「近代日本〈本棚〉史:本箱発、円本経由、スチール行き、そしてみかん箱」『文献継承』二〇一七・一〇)。この頃、ようやく多くの本に背文字がつくようになっている。
本書では、このような事実を積み上げて、「立ち読み」の誕生に迫る。が、勘のいい読者はすでにお気づきだろう。
「立ち読みの歴史」を考えることは、現代の私たちにとっては当たり前の「本」や「読書環境」のあり方が、いかにして誕生したのかを問うていくことにもなるのだ。
■ 立ち読みの歴史は読者の歴史
出版史の資料は、どうしても有名出版人の回顧録や版元・取次の社史、書店経営論などに偏ってしまう。これは致し方のない面もあるが、いずれも「生産者」「売る側」から描かれるため、時代ごとの多様な受け手・「読者」のありようが捨象されてしまう傾向にある。
しかし、立ち読みをする主体は(買うかどうかもわからない)「読者」である。それも江戸時代と異なり、他の本でない、まさにその本を選んで手に取り、まわりを気にせず没入する主体的「個人」だ。ゆえに本書は、日本近代に誕生し、いま書店にいて、この本を手に取っているあなた、つまり読者の歴史でもあるのだ。
立ち読みを切り口に、あなたのご先祖、「読者」がどんな姿で本を読んでいたのか、楽しんでもらえれば幸いである。
【イベント情報】 小林昌樹 × 鹿島茂
小林昌樹 『立ち読みの歴史』(ハヤカワ新書)を読む
【日時】7/4 (金) 19:00 -20:30
【会場】PASSAGE SOLIDA(神保町)
東京都千代田区神田神保町1-9-20 SHONENGAHO-2ビル 2F
※1Fよりお入りいただき、階段で2階にお上がりください
【参加費】現地参加:1,650円(税込) 、オンライン視聴:1,650円(税込)(アーカイブ視聴可)
※ALL REVIEWS 友の会 特典対談番組
※ALL REVIEWS 友の会(第5期:月額1,800円) 会員はオンライン配信、アーカイブ視聴ともに無料