紀田順一郎と荒俣宏
×月×日
東京堂の新刊本コーナーは、その長方形のスペースをぐるりと一巡すると読むべき本、買うべき本がすぐに見つかるという、本読みにとってはまことにありがたいスポットなので、月に最低二度はここに足を運ぶことにしているが、さらにありがたいのは一般書店には流通していない本や雑誌が配架されていることだ。その一例が、図書館司書の経験を生かし、『調べる技術』のベストセラーを放った小林昌樹が主宰している近代書誌学研究誌『近代出版研究』(近代出版研究所 三二〇〇円+税)。
最新号(二〇二五年、第四号)の特集は「書物百般・紀田順一郎の世界」だ。
紀田順一郎の特別寄稿を別にすると圧倒的なのが弟子の荒俣宏の寄稿「『博捜一代』随聞記」三万五千字だ。
わたしがはじめて紀田さんを知ったのは、今では記憶する人も少ないハードボイルド探偵雑誌『マンハント』の誌上だった。
『マンハント』とは懐かしい。ライバル誌の『ヒッチコック・マガジン』に比べると表紙にモダンな女性をあしらった、いささか軟派の雑誌だったと記憶する。
この『マンハント』に紀田順一郎は「よろず人生案内」という珍職業のルポを連載していて、これが荒俣少年をいたく感激させたらしい。
では、紀田・荒俣の実際の出会いはいつかといえば、これは思わぬところから実現したようだ。
永井荷風の門弟でありながら荷風に破門されて千葉で隠棲生活を送っていた幻想文学の翻訳者・平井呈一に中学生ながら弟子入り希望の手紙を書いた荒俣に平井が次のような電話をかけてきたのである。
「今度、非常に情熱ある青年が怪奇文学の雑誌を出すといってきた。とてもよく勉強している人だから、きみもその人から教えを受けなさい」。
平井は「横浜にいる佐藤俊というお方だよ」というので、荒俣が手紙を書くと、返事が届いた。封筒の裏を見て驚いた。「そこには佐藤俊(紀田順一郎)と、二つの名があったからだ」。
驚きはさらに続いた。一九六四年、高校の図書委員をしていた荒俣は図書館に入庫した『現代人の読書』の著者が紀田順一郎と記されていることに驚愕した。「これは、あの紀田さんと同一人物だろうか、と何度も目をこすってしまった」。疑念は書籍カードの書き方のサンプルとしてシェリダン・レ・ファニュの本が取り上げられているのを発見したことできれいに晴れた。
おそらくこの瞬間だったのだろう、わたしが紀田先生を読書の師匠と心に決めたのは。
こうした麗しい師弟関係についてはある程度知っていたが、紀田・荒俣コンビがITS情報革命に深くかかわっていたことは知らなかった。
「『博捜一代』随聞記」の後半は、二人が日本語をコンピュータに適応した言語にするまでの戦いが記されている。日本語は途方もない悪魔だったのである。
こんどの悪魔、『日本語』は、その規模といい影響力といい、幻想怪奇文学とは比較にならない化け物だった。その中で紀田さんは、この悪魔を手なずける闘いの最前線に加わったといえる。
これだけでも随聞記として抜群におもしろい読み物であるが、『近代出版研究』には特集「書物百般・紀田順一郎の世界」のほかに、サブ特集として「古本王子の快進撃 片山杜秀ロングインタビュー」が巻頭に配されている。これもまた特筆に値いするおもしろさだ。
とりわけ、古本は病原菌の巣だと信じる祖母の影響で古本屋には足を踏み入れなかった片山杜秀が、小学校高学年で戦国時代マニアになって、古本屋通いを始めたきっかけというのがすごい。
戦前の早稲田大学出版部の『通俗日本全史』とか――ああいうのが読みたくなっちゃって、それで小六、中一くらいから古本屋にそういうものを買いに行くようになりました。
中でも驚くべきは、小六のときに小宮山書店で二〇万円で売っていた『続群書類従』を欲しいといったところ、知り合いの上場企業の重役がそれを買ってくれたというエピソードである。まさに古本王子!
日本で最も手薄な分野と思われている書誌学研究に黎明が見えてきそうな雑誌である。