ネット時代を予知した第一次大戦前
考えることの第一原則が「疑う」にあるとすれば、第二原則は「分ける」にあるとしたのはデカルトだが、十九世紀以後、出版物の飛躍的増加で人知の領域が拡大化すると、図書館にとってこの「分ける=分類する」が喫緊の問題となってくる。ベルギーのイエズス会系中学に通う内向的な少年ポール・オトレは神父から図書目録の整理と作成を任されたが、そのときすでに「個人コレクションの精巧な分類法」について考え始めていた。読んだものは必ずメモを取り、ホルダーを使って整理していたからだ。
オトレの夢は十四歳年上の社会学者アンリ・ラ・フォンテーヌと意気投合して一八九三年に「国際社会学書誌協会」、二年後に「国際書誌協会(IIB)」を設立したことから実現に向かって進み始める。「膨大な時間をかけて書店目録や出版されている書誌集などを調べ、項目ごとに切りとって索引カードに貼りつけ、分類番号をつけて引出しに入れた」。分類には最初デューイの十進分類法をもちいたが、独自の分類法を考案するに至る。オトレが目指したのはより包括的・普遍的な仕組みで「文字、写真、図、録音といった複数の形態や、本、章、段落、文、さらにはそれ以上要約できない『事実』までのさまざまな意味レベルの知識に対応できるもの」だった。オトレは「人間の思考と表現の全領域」をカバーする「国際十進分類法(UDC)」という新分類法を模索したのである。
フォンテーヌがベルギーの上院議員になったこともあり、IIBは政府機関に準じる組織となる。
オトレたちの独創性は、人類の全知識は(1)事実(2)事実の解釈(3)統計(4)情報源という根源的なデータに分解できるという確信に基づき、データを整理し、順列組み合わせを可能にすることで「人工頭脳」の可能性を射程に入れたことにある。個々の著者の声は「装飾」と見なして取り除くのも現在の検索エンジンの先取りだった。コンピュータさえあればオトレの世界書誌は今日のビッグデータとなり得たのである。
二人は一九〇〇年パリ万博、一九一〇年ブリュッセル万博を最大限に利用して賛同者の輪を広げると、ベルギー政府から万博用地の施設を再使用する許可を得て、「あらゆる形態の人間の知識を無限に拡大できる記録場所」としての「博物館の博物館」、すなわち「世界宮殿(パレ・モンディアル)」の建設に邁進する。「オトレが思い描いたのは、いつの日か壮大な『人類のアーカイブの総体』ができ、世界書誌が『真の目録』になること」だった。カーネギーなどの資金援助もあり、オトレの夢は実現に向かって動きだし、世界都市計画、世界統一政府を構想するまでになる。「世界都市計画が具体化し、国際団体連合の加盟団体が150を超え、世界書誌の項目数は1000万件を突破した。この重要なときに、ヨーロッパが瓦解した」
そう第一次世界大戦の勃発である。オトレの夢は「世界都市」計画でル・コルビュジエとのコラボが実現するという例外はあったものの、それ以外はほとんどが潰え去り、やがてその名も忘れられた。
インターネット時代を予知した知られざる巨人の興味深い評伝である。