観光ブームで一大土産品に
木彫り熊は、北海道の著名な土産品です。大正時代末期に作り出され、戦前・戦後の北海道観光ブームに伴って、道内外各地で盛んに制作・販売されました。一般的には、鮭をくわえた黒塗りの木彫り熊がよく知られていますが、当初は鮭をくわえていないシンプルな姿をしていました。需要の高まりとともに、ポーズや塗り、大きさなどに豊富なバリエーションが生まれ、現在に至るまで造形表現は実にさまざまです。基本的には職人の手で一から作られるものですが、北海道観光ブームの最盛期には分業や一部工程の機械化による大量生産も行われ、道内各地に、作業場や工場が建てられました。当時の盛況ぶりは「現在道内で生産される木彫り熊は、年間約250万個、ザット15億円」(『北海道観光百景』、1976年)と伝えられるほどで、北海道の一大土産品産業となっていたことがうかがえます。
二つの源流・八雲と旭川
北海道の木彫り熊には、八雲、そして旭川近文(ちかぶみ)という二つの源流があります。八雲では、徳川農場が1923(大正12)年からスイスのペザントアートをモデルとした農村美術運動を展開するなかで、木彫り熊が特産品として知られるようになりました。戦前までは徳川農場内で組織的なデザイン考案、制作と品評が行われ、戦後は個人作家が多く輩出されました。楽器演奏やスキーをするなどの擬人化を用いた木彫り熊も生まれています。旭川の近文では、1926(大正15)年頃、大きなクマと山で格闘し、九死に一生を得た熊猟師・松井梅太郎を含む近文アイヌの人々が木片から「豚熊・鰐熊・鼠熊」と呼ばれる熊の彫り物を制作し始めたことが人々の目にとまり、次第に造形表現豊かな木彫り熊へと発展し、新しいアイヌの土産品として認識されるようになりました。
9月に刊行した『開講!木彫り熊概論 歴史と文化を旅する』では、主に八雲と旭川近文の木彫り熊の歴史を振り返り、土産店、職人・作家、展覧会を企画した博物館や大学など、木彫り熊に携わる方々の多彩な活動と現場の声を紹介しています。
実は、私たちの生活にあまりにも身近なものだからこそ、北海道木彫り熊に関する体系的な研究はまだほとんどされていません。多くの木彫り熊がその価値を知られることなく処分されたり、自宅の物置や押し入れの奥で埃をかぶっていたりする現状があります。制作・販売の現場に関わってきた人々の記録や記憶といった大切な情報も、時代の流れとともに去りゆくままになっています。
これからの木彫り熊研究
筆者は、木彫り熊の足裏などにある彫刻やペン書き、焼印・刻印の「サイン」に注目し、北海道木彫り熊の制作・販売の多様な状況や、作り手・売り手・買い手のつながりをひも解こうとしています。「サイン」としては、木彫り熊を買った地域名や作った職人の名前、あるいは購入した人の名前、そして北海道を訪れた理由などが見つかっています。前述した木彫り熊の大きな需要に応えて、道内の観光地のみならず、長野や神奈川などの受注生産を受けた道外、さらには海外にまで制作が広がっていきました。
また、作り手にはアイヌも和人もいただけでなく、職人、アルバイト・パート、福祉施設の入所者、刑務所の受刑者など、実にさまざまな人の手で木彫り熊は作られてきました。木彫り熊の販売・流通にも、問屋やドライブイン、観光地に軒をつらねた大小さまざまな土産店、デパートや物産展と、たくさんの場所が関わっています。
そして、木彫り熊を買い求めた人々もまた一様ではありませんでした。旅の思い出や記念品、新築祝いなどの贈呈品として、人から人の手を木彫り熊は渡ってきました。そうして、私たちの暮らしのなかに、今も木彫り熊の姿があります。
木彫り熊を、いつ、どこで、誰が、何のために、どのように作ったのか。木彫り熊の「ふるさと」を巡り、その「旅路」をたどることが、木彫り熊を学問するということだと考えています。木彫り熊は過去の遺物ではなく、今なお私たちをまだ見ぬ北海道の歴史と文化を巡る旅へ誘う、確かな力を持つものです。
あなたと木彫り熊、北海道のヒト・モノ・コトのつながりを巡る旅を、『開講!木彫り熊概論 歴史と文化を旅する』でともにできれば幸いです。私たちの「木彫り熊学」は、まだ始まったばかりなのです。
[書き手]
田村 実咲(たむら みさき)
1995年、北海道札幌市生まれ。北海道大学大学院文学研究科修士課程修了。2022年、札幌市アイヌ文化交流センター活動促進員。2023年より国立アイヌ民族博物館にて、アソシエイトフェローとして勤務している。木彫り熊の「サイン」に注目し、木彫り熊の制作と販売の歴史についての研究を進めている。