このたびその人生を辿った本格評伝『彰義隊、敗れて末のたいこもち 明治の名物幇間、松廼家露八の生涯』(目時美穂著)が刊行されました。刊行を記念して、本書より「序 ふたつの魂」を公開します。いかなる架空の物語より、ずっと波乱万丈に富んだ露八の生涯を、ぜひたどってみてください。
序 ふたつの魂
明治維新。それがクーデターにしろ革命にしろ、敗者となった徳川家の家臣、旗本、御家人たち、およそ三万人は多くのものを失った。主人をなくし、職をなくし、将軍家直参(じきさん)という特権身分の誇りを奪われた。住む家を召しあげられた者たちもあった。ある者は新しい支配者に逆らって戦いを挑んで戦死し、ある者は静岡藩に封じられた旧主を慕って無禄(むろく)移住して陋屋(ろうおく)で飢え死にした。江戸に残った者も、暮らしのために、筵(むしろ)を敷いて重代の宝物を路上でたたき売り、食うに窮して、かつての殿様が俥曳(くるまひ)きとなり、奥様は内職にはげんで、お嬢様は売られて遊女に、あるいは芸者になって左褄(ひだりづま)。しかし、ただ零落した者ばかりでなく、新しい時代で意義ある人生を送り得た者たちもいた。新政府に仕えて能力を発揮した者も、栄達を果たした者もいる。市井にくだって、帰農に成功した者も、商売が軌道に乗って経済的に豊かになった者もいた。学問で成果をあげたり、新聞記者などになり言論畑で活躍した者もいる。宗教家となって人生に目的と安息を得た者もいる。
市井にくだる、というのはべつに没落することでも人生を捨てて隠遁者(いんとんじゃ)となることでもない。世の権力の座とは無縁の場で、世間にもまれながら、おのれの生をまっとうするということだ。そうした市井に生きた明治の群像のなかのひとり、松廼家露八(まつのやろはち)の生涯を語りたい。
松廼家露八、吉原遊廓の幇間(ほうかん)である。もとは幕臣ともいえる武士。
天保四(一八三三―四)年十二月生まれ。本名を土肥庄次郎頼富(どひしょうじろうよりとみ)という。彼が相続するはずであった土肥家は徳川御三卿(ごさんきょう)のひとつ、一橋家の家臣。家格も目見(めみえ)以上(殿様にお目見えする権利を有する家柄)のれっきとした武士であったが、若いころ放蕩(ほうとう)の末廃嫡(はいちゃく)された。その後、幇間になって愉快に暮らしていたが、三十六歳のとき、徳川幕府が瓦解した。そのとき、何を思ったか彰義隊(しょうぎたい)に加わり、新政府軍と戦った。抵抗むなしく戦いに敗れてのちは、残りの人生の多くを幇間としてすごした。
かつて露八の名はよく知られていた、と思う。
昭和七(一九三二)年、岡本綺堂(おかもときどう)は露八をモデルに野井長次郎こと梅の家五八を主人公とした『東京の昔話』という芝居台本をものしている。昭和七年十月、歌舞伎座初演。主演は二代目市川左団次。昭和四十六(一九七一)年五月、国立劇場で再演され、このときは綺堂の弟子、岸井良衛(きしいよしえ)が演出をつとめている。
さらに、露八の数奇な人生に惹かれた吉川英治は、彼の半生を小説にした『松のや露八』を書き、昭和九年『サンデー』に連載した。それは芝居にもなって、昭和三十四年に、矢田弥八脚色、前進座による公演で、明治座の舞台にのぼった。昭和四十一年九月には、中村勘三郎の主演でおなじく明治座で上演された。そして昭和四十九年には、森繁劇団により、名古屋の名鉄ホールで舞台になっている。このときは、平岩弓枝が脚本・演出を担当した。昭和五十六年には露八役・三木のり平、お里役・水谷良重(八重子)の『露八恋ざんげ』が明治座で上演された。伊庭八郎(いばはちろう)や、新政府側の世良修造(せらしゅうぞう)、黒田了介(くろだりょうすけ)などが登場しているから吉川英治の原作とは離れたオリジナルの内容であろう。平成になってからも、平成二(一九九〇)年九月、東宝で『松のや露八』が舞台にかけられた。露八役は植木等が演じた(杉山義法脚本、津村健二演出)。いまからわずか三十数年前のこと。しかし、いまやその名を知る人はほとんどいない。
ああ、明治は遠くなりにけり。
幇間は、たいこもち、たぬき、女性の芸者に対して男芸者ともよばれる。ほかにもたくさんの別称があるが、明治のころ、ちまたにもちいられていたよび方はこれくらいだ。で何をするかといえば、つまるところ、遊廓に来た客をすこぶる楽しく遊ばせる職業だ。お座敷で場の空気をよんで盛りあげ、酒席にもつき合えば即興の芸も披露する。かつて、宴席になくてはならない芸人だった。
「たいこもちあげての末のたいこもち」という川柳がある。かつてたいこもちをあげて豪勢に遊んでいた金持ちが、遊興がすぎて零落し、遊びつくして唯一身についた芸、たいこもちになったという、古くは、遊びをつくした道楽者のなれの果てのなり手が多かったという幇間という商売。吉原最後の幇間、桜川忠七によると、
【で、そのたいこ持ちには、どういう人たちがなったかと申しますと、蔵前の札差しさん、深川木場(きば)の若旦那、新川(しんかわ)新堀あたりの酒問屋の御主人とか、横山町堀留あたりの旦那衆、それに御直参、旗本の二、三男坊といったところと存じます。】(桜川忠七『たいこもち』朱雀社、一九五九年)
富商やその身内のなれの果てだけでなく、旗本の二、三男坊も多かったという。してみると、武士から幇間に「なりさがった」者はけしてめずらしいわけではなかったようだ。
色里にいて、酒席にはべり、毎日お金持ちのお客のご相伴にあずかってわいわい騒いで金をもらえる。一見気楽そうだが、知れば知るほど大変な商売である。客を遊ばせる、ある意味客に遊ばれることが仕事の幇間に対し、客も遠慮や容赦がなく、落語や、浅草の幇間・悠玄亭玉介(ゆうげんていたますけ)の聞き書き『幇間の遺言』(集英社文庫、一九九九年)を読むと、座敷遊びの粋(いき)がわからぬ傍目からは、胸くその悪くなるような話ばかりで、ただの道楽者につとまるような生半可なものではなく、少しもお気楽な商売とは思えない。玉介が粋な座敷、客として紹介する話を読んで、「な、粋だろ」といわれてもどうも同意しがたい。
遊びつくした道楽者のなれの果てが幇間になっていたのは明治初年くらいまでだというから、時代が進んで客の雰囲気も変わったのかもしれない。
ともあれ、若いころには宴席の華やぎに酔って幇間を愉快な職業だと思ったかもしれないが、露八は、戦い敗れ、すべてを失ったのち、いったいなぜ、ふたたび幇間稼業にもどったのだろう。
吉川英治の露八は、意志薄弱で、みずからの意志というよりは、状況や、他人(とくに女)に流されている。その気張らないさまが主人公の魅力であり、読み手にとってもおもしろいところだろう。が、吉川英治の『松のや露八』を読んだ伊藤痴遊(いとうちゆう)はこんな感想をいだいた。
【吉川英治君が荻江(おぎえ)露八を書いた。それは面白く読んだけれど、吉川君は、露八を知らなかつたに違ひない。何者か知らぬが、露八の事を話したので、書いて見たくなつて、那(あ)アした作物が生れたのであらう。
残念乍(なが)ら、那の作物には、本当の性格は、現はれて居なかつた。吉川君に、話したものも、真に露八を、知つて居るのではなく、幇間としての露八のみを知つて居て、露八の真骨頂は、解し得なかつたらしく、従て、露八の本態は、捉へ得なかつたのを、甚(はなは)だ遺憾に思ふ。】(「亡友の思ひ出 三」『痴遊雑誌』第一巻第六号、一九三五年十月)
伊藤痴遊は、自由民権運動に奔走していた若かりしころ、露八と交流をむすんだことがあった。後述するが、露八は、自由民権運動をしていた若者たちに手を貸していたことがあったのだ。では痴遊が見出した「露八の真骨頂」「露八の本態」というのは何かというと、幇間となっても変わらぬ武人の面影と心意気であった。
以下にあげた露八の肖像写真をごらんいただきたい。この老人の、険しく、厳しい顔にはどこか心打たれるものがある。
べつに、幇間だからといって座敷を離れた日常も陽気であらねばならないわけではない。桜川忠七はいう。
【人さまは、わたしどものことを、バカな奴だとお思いになっていられるでしょうが、そんなことは百も承知でございます。ハラの中では、人をさげすむようなお人のことは、こちらだって、人さまだと思っちゃおりません。
高座にあがって、漫才や、落語をやっている芸人の方だって、そうだろうと思いますよ。だから芸人の私生活は、わりあい厳しいようですな。お座敷の顔は、自分の顔ではないってことでございます。】(『たいこもち』)
噓をついているのでもだましているのでもない。遊女は客と接しても自分が快感を得てはいけないという。客に酒をすすめる職業も、客は酔わせても自分が酔ってはいけない。人を笑わせる仕事も、人を笑わせるのであって自分が笑うのではない。客にそうみえるのはすべては芸なのである。だから、職業が幇間であったとしても、地の性格が陽気であらねばならないということではけしてない。露八がプライベートな時間、厳しい表情ですごしていたからといってとやかくいわれることではない。だいたいこの時代の人物がゆるい顔で写真に写っているのはごくごく稀(まれ)だ。
それでも、写真の露八の顔をみていると考えたくなる。たまたま厳しい顔で写っただけかもしれないその表情に意味を求めたくなる。露八の表情の険しさは、芸に生きた人生の厳しさだけに刻まれたものではない。幇間として生きながら、戦死した戦友たちの追悼に生涯心をくばり、死後は戦友たちの墓のある円通寺に亡骸(なきがら)をうずめることを望んだ旧幕臣の内面を探ってみたくなる。
だが、幕末・明治期の、一介の武士、いち幇間、いち市井の人の足跡をたどることはむずかしい。
彼の人生を知ることができる第一次資料は、まず、明治三十三(一九〇〇)年、六十八歳の露八が語ったとする「身の上ばなし」(『季刊 江戸っ子』四十七号・一九八五年七月、五十号・一九八六年四月、五十六号・一九八七年十月、アドファイブ出版局)である。幼年期から晩年までを事細かに本人が語ったことだから、これほど確かなことはあるまいと思われるだろうが、この資料にはひとつ問題がある。「資料発掘・編=喜撰堂主人」とあるが、その発掘されたもとの資料の出典が明かされていないのだ。めぼしい資料を探してみたが、出典をみつけることができなかった。『江戸っ子』には、おなじく喜撰堂主人の名でさまざまな聞き書きなどが提供されており、なかには露八などよりさらに無名の芸者の聞き書きも記されている。おなじ資料群と思われる。「喜撰堂主人」氏が、当時の記者か好事家(こうずか)かが廓内(かくない)の人々に人生を語らせて文字にしたが、公表の機会を逸した原稿でも入手されたものか。
「身の上ばなし」は、連載一回目の冒頭は妙に噺家(はなしか)口調で、後半と文体が大きく変わっている点や、本人が語ったはずの内容が、資料からつかんだ事実とそぐわないことがままある。文体のちがいは速記をとった人間が変わったとか、話者の気分の問題、史実とのずれは、記憶ちがい、忘却、あるいは語りたくなかった、語るべきでないと判断した、など理由はいくらでも考えられる。それでも典拠のわからない再録資料を完全に信頼することはできないから、できうる限り別の資料で事実を裏づけながら話を進めたい。
この「身の上ばなし」が発表されるまでの露八の生涯の基本文献は「野武士」という筆名をもちいた誰かが『文芸倶楽部』(第十二巻第六号、一九〇六年四月)に書いた「松迺家露八」(迺の字については、まぎらわしいので以降、廼の字をもちいる)という評伝であった。露八歿後三年にして著者の野武士が得ることができた情報を聞いたままにまとめたものという。
さらにいうならば、この野武士の「松廼家露八」に書かれた内容は、露八が亡くなったとき、「都新聞」(一九〇三年十一月二十五日 ― 二十六日付)の露八の伝記「故松廼家露八の経歴」と情報がほぼ重なる。誤った情報も共有している。野武士がこの記事を参考にしたのか、記者と同一人物なのか、もろもろ推測はできるが、記事は無記名で、野武士氏の正体はわからないから、両者の関係はあきらかにできない。
また、旧幕臣の戸川残花(とがわざんか)が『文学界』(第四十七号、一八九六年十一月)に発表した「露八」という作品がある。この作品は評伝というよりも評論、小説であり、評伝研究の資料としては信頼に足らないとされる。だが、「露八」に書かれた情報は、必ずしも正確とはいえないが固有名詞をともなう詳細な情報である。作品が書かれた明治二十九(一八九六)年時、露八の人生についてまとまって記されたものはない。残花はどのようにして露八の情報を得たのだろう。
明治二十九年といえば、残花が旧幕府時代の記憶や、戊辰(ぼしん)戦争の追想などを集めた『旧幕府』の刊行をはじめた前年である。残花は、雑誌に掲載する情報を集めるため、方々の旧幕の古老の生き残りを訪問していた。このとき、彰義隊の生き残りとして知られる露八に話を聞きにいったとしてもおかしくない。このインタビューのためとは断言できないが、残花が実際に露八の家を訪問した記述もある。
もし「露八」の内容を主観を廃して編集し、『旧幕府』に載せたなら、野武士の評伝とならぶ基本資料となったにちがいない。だが、残花はこれを小説にし、日本最初の浪漫主義小説雑誌に発表した。なぜそうしたのか。
露八の人生は小説に仕立てたくなる欲望を搔き立てるらしい。
吉川英治しかり。戸川残花しかり。主人公ではないが、露八は子母沢寛(しもざわかん)の「蝦夷(えぞ)物語」にも、山田風太郎の『幻燈辻馬車』にも登場する。また、短編小説だが、村松梢風(むらまつしょうふう)も書いている(「本朝奇人伝 松廼家露八」『随筆』三号、一九五二年三月)。実録や史実に基づいた時代小説を得意とした江崎惇の作品(「露八しぐれ」『小説倶楽部』二十巻八号、一九六七年六月)もある。遠藤幸威(えんどうゆきたか)も「露八供養」(『中央公論』第八十二巻第十号、一九六七年九月)をものしている。いちばん最近は土肥庄次郎が主人公の時代小説、阿井渉介による『慶喜暗殺 ― 太鼓持ち刺客・松廼家露八』(徳間書店、二〇二二年)が出た。まだいくらもある。無視すべきでないと判断した小説もまた参考にした。
戸川残花はいう。「明白に半身は武士なりと雖(いえど)も半身は幇間なり」(「露八」『文学界』第四十七号)と。土肥庄次郎の魂の半分は、生涯変わらず父親ゆずりの物堅い「二本挿し(りゃんこ)」(刀の大小二本を差した者、転じて武士の意)であった。その半分の魂は、永遠に死んだ戦友を悼(いた)みつづけ、しかし、もう半分の魂の松廼家露八は飄逸(ひょういつ)で自由な芸人の世界にあこがれた。この魂の半身ずつは、どちらも彼の本質であった。このどちらの魂を否定するでもなく、露八は自由の巷(ちまた)を生きた。
露八の生きざまには、たとえ敗者となっても、人間は誇りをもって自由に生きることができるのだという、したたかな力がある。それは、敗者の立場に追いやられても、敗北に沈んだみじめな生涯を送る必要も、ただ敗北を挽回するためだけの、劣等感に汚れた望まない労苦に人生を蕩尽(とうじん)する必要もないことを教えてくれるのだ。
前置きが長くなった。
事実は小説よりも奇なり。
彰義隊士・土肥庄次郎、転じて幇間・松廼家露八の波乱万丈な人生についてお話ししよう。
[書き手]目時 美穂(めとき・みほ)
1978年静岡県生まれ。2003年明治大学文学部フランス文学専攻修士取得、2009年同博士後期課程単位取得満期退学。専攻研究のかたわら明治時代の文化風習、文学等に興味を持つ。在学中、古書情報誌『彷書月刊』へ。2010年の休刊号まで編集に携わる。著書に『油うる日々─明治の文人戸川残花の生き方』(芸術新聞社、2015年)、『たたかう講談師─二代目松林伯円の幕末・明治』(文学通信、2021年)。