史実と脚色の境を知る
織田信長は有名すぎて、虚実ない交ぜの人物像になっている。若い時分に、異様な装束を着て、父・信秀の葬儀で奇矯な振る舞いをしたが、虚像を膨らませる文学では、敵を欺くための馬鹿のふりとされ、実像を追う史学では、合理的な兵法の一環で「かぶいた」派手好み、とされる。信長の実像から虚像への展開は、太田牛一の『信長公記』→小瀬甫庵『信長記』→遠山信春『総見記』と、フィクションの度を高めていく。『信長公記』の日記風記録から、だんだん『絵本太閤記』など娯楽性の強い仮名読み物に変化し、信長像に尾ひれがついた。さらに、歌舞伎の演目になり、司馬遼太郎の「国民的歴史文学」が脚色して、正室の帰蝶(濃姫)などを活躍させた。歌舞伎には「几帳」という信長の愛妾(あいしょう)が登場し、本能寺の変で奮戦する。司馬は江戸後期の『絵本太閤記』のままに、信長の正室・帰蝶を本能寺で戦わせ、討ち死にさせるシーンを書いた。司馬作品は史料の多い明治以後の日露戦争を描いた『坂の上の雲』などは史実に寄せてあるが、戦国時代を扱った作品は講談さながらの娯楽文学で、司馬作品で「歴史がわかる」などと思ってはいけない。司馬自身も歴史がわかる戦国物を書く意図はなかったろう。
一方、歴史学は、同時代の一次史料や新史料で、信長の実像をアップデートし続けている。信長の父は晩年、信長の弟・信勝に領国支配権の「分与」をすすめていた形跡がある。熱田社(熱田神宮)の統治権すら弟に与えられていた。この状況を解消するために、信長は弟と抗争し、ついには殺害した。また信長の母は後妻らしい。信長の父は主君の尾張守護代・織田達勝(みちかつ)の娘婿となり、それをテコにのし上がり(『熱田加藤家史』)、ついで主君と抗争して袂(たもと)を分かち(『言継卿(ときつぐきょう)記』)、信長生母・土田御前を継室に迎えたらしい。信長の女性関係は、同時代史料を丁寧にみると、新たな像が浮かぶ。信長の正室は斎藤道三の長女で、帰蝶の方、鷺山殿とよばれた(『美濃国諸旧記』)。文学では夫婦仲は良い。しかし、当時たまたま岐阜に下向していた公家は信長の「夫婦げんか」を日記に記している。信長が正室の義姉から「名物の壺」を取り上げようとし、この姉、正室ら斎藤氏の係累十七人が「壺を奪うなら自害する」と抵抗していた(『言継卿記』)。
また、明智光秀の動向も同時代史料から更新が進んでいる。光秀の妹(もしくは光秀妻の妹)に「ツマキ」という女性がおり、「信長一段のキヨシ」の「近習女房衆」になっていた。勝俣鎮夫(東大名誉教授)は信長一段の「気好(きよ)し」とみて、すぐさま側室と解釈したが、本書も指摘するように早計であろう。信長側近の女房衆、お気に入りの女性秘書ぐらいの解釈でよい。事実、訴訟の窓口など務めている。天正九(1581)年八月、この妹が死んで、光秀は「比類なく力落とす也」とある(『多聞院日記』)。以後、光秀は信長の内部情報を入手できなくなり、光秀・信長間の疑心暗鬼が深まっても仲介が入らず、本能寺の変に至ったのである。
信長をめぐる虚実が、よく整理された本である。大河ドラマ「麒麟がくる」が再開されて視聴する際にも、どこまでが史実か脚色かが気になるときは、本書が参考になるであろう。