世界文学であり、日本文学であること
野心的な書物だ。村上春樹がいかに世界文学なのかを描き切り、しかも日本文学だと位置づける。この離れ業を多彩なアプローチと綿密な論証でやりとげている。まず、どう日本文学なのか。
村上春樹はデビュー当時、外国文学の影響を強調し、日本文学と無縁なふりをした。でも後年、十代は大江健三郎のファンでしたと認めた。目くらましだった。
村上の登場後、大江派と村上派が対立した。大江支持派は村上が嫌い。逆もそう。でも二人は似ていないか。加藤典洋氏の指摘だ。著者はそれを確認する。二人とも左派リベラルで、私小説の伝統に背を向け、文章は翻訳ぽく、幻想的で、暴力と性を描き、魂がキーワードだ。『万延元年のフットボール』/『1973年のピンボール』と題名が似ている、など。
要するに、村上春樹は生粋の日本文学である。村上/大江/筒井康隆、が三角形の星座のようだと著者は言う。村上は筒井や大江からアイデアやプロットを多く借用した。数年前に著者の指摘でようやく気づかれた事実だという。
では、どう世界文学なのか。
著者は反村上派。≪告白すれば…もともと「アンチ」だった≫。でも、海外で翻訳の村上作品を読むと≪至純の声が響いてきた≫。反撥(はんぱつ)は自分の≪日本人としての偏り≫なのかも、と気がついた。
≪至純の声≫とは何か。村上の文体のモーツァルトのような精妙さだ。それは、日本の小説の文章の余計なクセを削ぎ落とした大江の文体を、さらに突き抜け獲得できた。≪村上が大江を否定しながらサンプリングすることで、村上は村上にな≫った。大江も証言する、≪村上さんは、自分の口語体を新しい文章体に高め≫ていて、その≪めざましさは、私など達成…できなかったものです≫。
日本語なのに日本語を越え、言語の本質に届く。著者はそれこそが、翻訳しても揺るがない村上文学の核だと考え、英中独仏など8種の翻訳を綿密に検証する。
≪本書の目的は、村上文学をサンプリング、翻訳、アダプテーション、批評、研究からなる、独特の世界文学的構造体として提出する≫ことです、と著者は言う。村上が先行の作家に影響されたり、翻訳文体に影響されたりそれがまた翻訳されたり、映画化されたりマンガやアニメの世界観に投影されたり、といった幅と拡がりの全部(ポリフォニー)が村上文学なのだ。本書も当然その一部だ。
ここまで大きな本書の構えは、従来の批評の枠をはみ出してしまう。「脳の多様性」を論じる補論がユニークだ。著者は≪当事者批評≫を実践する。精神科医が作者を診断する病跡学の拡大版だ。村上氏も著者と同じ発達障害の一種の≪自閉スペクトラム症グレーゾーン≫では、と見当をつけ診断する。デタッチメント/…/独特すぎるユーモア/凝り性/…/収集癖/オウム返し/…/あちらの世界とこちらの世界/…など、あるある症状のオンパレードだ。
村上作品は目の前にあるのに、これまでうまく論じられて来なかった。村上氏本人が批評家にアカンベーをしている。でも作品には本人も知らない創作の秘密が隠れているはず。本書はそこに攻め込み、橋頭堡(きょうとうほ)を築いた。ドイツ文学が専門の著者のホームランだ。