書き残される新宿論
関東大震災で焼け、太平洋戦争の空襲で灰燼に帰した東口周辺には、根付きの盛り場が蘇生する。昭和五六年で創立三〇周年を迎えたという、商業地として繁昌した新宿東口は、新宿商店街連合が発刊した記念誌『商業の街・新宿』(昭和五六・一〇)に語られているように、新宿を「商店街」という視点から回顧、編集されている。そして、商業集積がなく、官許の施設と学校のあった西口は、淀橋浄水場が埋め立てられ、都市開発によってオフィス街となり、東京都庁が都市景観としてはそぐわない装いで登場して、東京都の行財政の中心地区となった。新宿の歴史を語った本は沢山ある。なかでも、相馬黒光の自伝『黙移』(平凡社ライブラリー)は、明治、大正、昭和の新宿・中村屋を中心とした奮闘の文壇史である。また、紀伊國屋書店の創設者、田辺茂一の『わが町・新宿』(サンケイ)は、文字通り新宿の回想で、京王電車のつり革によって英語の原書を読んでいる私の祖父茅原華山が登場したりする。そして、関根弘の『わが新宿―叛逆する町』(財界展望新社)は、鋭利な切れ味で地鳴りのする新宿論である。その他に、本文中に引用したものとは別にざっと手許にある新宿をテーマに書かれた本の背表紙を見ても、新宿の歴史を独特な切り口で描いた著書がある。阿坂卯一郎著『新宿駅が二つあった頃』(第三文明社)、森泉笙子著『新宿の夜はキャラ色』(三一書房)、木村勝美著『新宿歌舞伎町物語』(潮出版)、窪田篤人著『新宿ムーラン・ルージュ』(六興出版)、芳賀善次郎著『新宿の今昔』(紀伊國屋書店)、野村敏雄著の『葬送屋菊五郎―新宿史記別伝―』(青蛙書房)、『新宿裏町三代記』(青蛙書房)、『新宿うら町おもてまち―しみじみ歴史散歩―』(朝日新聞社)、『新宿っ子夜話』(青蛙書房)などである。
そして、新宿と文学をテーマにまとめたものに、『新宿と文学―そのふるさとを訪ねて―』(東京都新宿区教育委員会・昭和四三・三)がある。その構成は、第一部が「区内を描写した作品」とあって、神楽坂、横寺町などをはじめ区内を題材とした文学作品を抜粋した編集がしてある。例えば「大久保」では、田山花袋、森田草平、金子薫園、大町桂月、戸川秋骨、高濱虚子などが大久保を語った詩歌、小説として紹介してある。そして、第二部は「区内に居住した作家」として、小泉八雲、坪内逍遥などの作品抜粋が並んでいる。これらは本編でもその一部を活用した。
地中に埋もれる西大久保
これらとは趣を異にするのが、戦後刊行の特殊な意味合いを付加した「風俗」と漢字で書くより、「フーゾク」という言葉で表象される「雑踏と猥雑」の歌舞伎町を中心として描いた、劇画調の小説やルポルタージュ風のものが圧倒している。暴力団関係者二万人、不法滞在外国人三万人、風俗関係者二万人がたむろするといわれる歌舞伎町である。「ルソンの谷間」で、第三七回の直木賞を受賞した作家の江崎誠致は、戦後の新宿をコスモポリタンのように見定めている(『新宿散歩道』文化服装学院出版部・昭和四四・四)。「新宿は誰の街でもない。新宿はただひたすら群集の街である。来るべきものはすべて拒まない。誰でもいつでもこの街の人間となることができる。銀座や浅草のように、それらしい気質を必要としない。「新宿かたぎ」という言葉は、昔も今も存在しない。」
かつて、「龍角散」のテレビコマーシャルで、浴衣姿の漫画家の滝田ゆうがタクシーを拾って、「角筈まで」というと、運転手が「西新宿ですね」というのがあった。これは滝田ゆうが懐古のオジサンで、運転手が職業意識のしっかりしたドライバーという問題だけではなさそうだ。益体もない行政の便宜のために、町の歴史を抹消する町名変更が問題になったことがあった。今では、この新宿西口の高層ビル群のなかで、「淀橋」とか「角筈」というひと昔前の地名を思い出す人は少ないだろう。大袈裟にいえばコスモポリタニズムの浸透である。
こういう一種の感傷の延長線上として、とくに明治、大正期の文士たちの多くが住み、また、往来した西大久保一丁目界隈を見ると、そこには、歌舞伎町二丁目という戦後の地図が覆い被さっていて、私が生まれ育った西大久保一丁目四九七番地ともども緑陰のある西大久保は、地中に埋もれてしまったのである。
生まれた土地への鎮魂の譜
新宿歴史博物館発行の『常設展示図録』の中に、近代文学研究者の竹盛天雄が「独歩・花袋・藤村・葉舟らと「大久保」―新宿と近代文学の一面」という論考を書いている。これは、田山花袋が東京近郊を「都会と野との接触点」という言葉によって位置付けたのをキーワードとし、変貌していく市街地を「生きられる空間」として守るという問題提起をしているのである。しかし、激変していく現代都市は、守るとすべき生きられる空間を喪失している。区画整理が出来なかった大久保地域は、防災、緊急医療などの機能が十分に果たせない地区となっている。しかも、牛が寝そべっていたという淀橋は、あたかもバベルの塔のごとき高層ビルが林立し、無機化した人口の集積地、新都心新宿西口となり、ツツジの名所であった西大久保は、混沌とした風俗の坩堝と化して、言語疎通が不可能ともいえる雑踏の歌舞伎町となった。この現実は如何ともし難い。だからこそ、「生きられる空間」の確保が必須ということだろうか。
昔は良かったといってもはじまらない。都市の相貌は、時代の変化を如実に表現していて、それが歴史というものだろう。だから、私の大久保文士村発掘は、大内力の言葉を借りれば、「亡郷の民」の生地に対する挽歌であり、鎮魂の譜でもある。生まれた土地は、蒙古斑の如く人の人生に付きまとう。それは、もしかすると「ゲニウス・ロキ」(地霊)の仕業かも知れない。田山花袋の『東京の三十年』(岩波文庫)の「東京の発展」に次のような一節がある。
「概して、東京の郊外は、新しく開けたものだ。新開地だ。勤人や学生の住むところだ。そこには昔の古い空気は少しも残つてゐない。江戸の空気は、文明に圧されて、市の真中に、寧ろ底の方に、微かに残つてゐるのをみるばかりである。かうして時は移つて行く。あらゆる人物も、あらゆる事業も、あらゆる悲劇も、すべてその中へと一つ一つ永久に消えて行つて了ふのである。そして新しい時代と新しい人間とが、同じ地上を自分一人の生活のやうな顔をして歩いて行くのである。五十年後は? 百年後は?」
[書き手]
茅原 健(かやはら・けん)
1934年東京都新宿西大久保に生まれる。1959年中央大学法学部卒業。工学院大学学園開発本部部長を経て、エステック(株)専務取締役。その後(財)日本私学教育研究所研究員、事務局長、理事などを歴任。著書に『民本主義の論客 茅原華山伝』(不二出版、2002年)、『工手学校』(中公新書ラクレ、2007年)、『敗れし者の静かなる闘い』(日本古書通信社、2021年)、『福音俳句 巡礼日記』(日本古書通信社、2022年)など。