卓抜した航海術を持った北方人の実像
ヴァイキングほど大衆文化のさまざまな面で大きな影響を与えてきた民族集団はないと言えるだろう。彼らは近代的な都市の形成からコミックに登場するスーパーヒーローまで、あらゆる場面に顔を出してきた。彼らが探検の航海に出て襲撃と略奪をすることで、未知の島々や大陸さえもが地図に加わった。もちろんヴァイキングの略奪行為は伝説となっている。しかし、私たちにとってお馴染みの大衆文化に描かれてきたヴァイキングのイメージのほとんどはまさにそれ、つまり伝説なのだ。挿絵などにみられる姿――角のついた兜をかぶり、頭蓋骨で作った盃からミード(蜂蜜酒)をがぶ飲みし、戦って死ぬことを名誉と考え、恐れを知らずに戦う海からの侵略者たち――は彼らの実態とはかけ離れたものだった。
キリスト教の祈禱文とされている「神よ、北の民の怒りから私たちをお救いください」という有名な言葉も、根拠はかなり疑わしい。当時はさまざまな信仰の対象があり、さまざまな民族がそれぞれの神にそうした祈りをささげていたものと思われる。しかしこの祈禱文の出典は明らかになっていない。これはヴァイキングに関してもっともよく引用される文言ではあるが、それが示唆するヴァイキングの行為自体は近代になってからの創作なのだ。
ヴァイキングと呼ばれている人々は、じつはもっと複雑な成り立ちをもっている。彼らはイメージされているよりずっと普通のどこにでもいそうな人々であり、言われてきたような血に飢えた侵略者で残忍な兵士だったとはとても信じられないのだ。彼らは荒々しい北大西洋を屋根のない船で航海し、時にはその船を陸路で運んでロシアの川に達し、その川を進んだ先で交易や略奪の対象を探していた。彼らは戦士であると同時に探検者であり、移住者であり、交易を求める者たちだった。そうした彼らの活動は、近代的な世界の成立に寄与していたのだ。
ヴァイキングの歴史的な事実
現在わかっているヴァイキングの実態はさまざまな情報源から得たものだが、そのどれもが完全に信頼できるものではない。従来の考古学的調査により遺物、埋葬地、居住地跡が発掘されており、ヴァイキングが残した物についての研究は可能だが、保存状態の良い史料はあまり多くない。あるひとつの遺物の意味や機能についてさえある程度推測することしかできず、決定的なことは分からないのだ。「事実」と見なされていることの中には、ある墓で発見された宝飾品に付属していた布切れにかすかに認められた図形、といったあやふやな根拠をもとに推定されたものもある。こうした判読作業は熟練した専門家が行っているとはいえ、あくまでも推測の域を出ない。実験考古学によってヴァイキングの人々がどうやって家や船を作り、どのように戦ったかはある程度わかっている。「ヴァイキング映画」としか言えないレベルの再現実験もあったが、多くの事実の再現は熱心で真剣な研究者によるものだ。斧を用いる戦い方や船の建造に関しては、類似した状況下で同じ材料、同じ道具を使うかぎり、過去も現在も人のすることに大きな違いはないと思われる。
現存する古文書からも多くを学ぶことができるが、それらは書き手の主観による記述であり、客観性に欠けることは免れないだろう。ヴァイキングに関する記述の多くは、教会の関係者やヴァイキングの脅威にさらされた国の住人が書いたものだ。事実をゆがめる意図はなかったとしても、自分たちを脅かした北の民の精神構造や生活様式を書き手が理解していたとは考えられない。彼らはヴァイキングという存在のひとつの面――多くの場合は異国から来た戦士、略奪者、交易相手としての面――だけを見た印象を記したのであり、母国でのヴァイキングの生活にはまったく異なる別の面もあったはずなのだ。
ヴァイキングに関するもっとも「直接的」な情報源のひとつに北欧の伝説を記した物語集「サガ」がある。しかしサガに記された英雄伝説は長いあいだ語りつがれたあげくに、実際の出来事より何世紀もあとになってから文字として残されたものだ。サガに描かれた出来事の多くは何らかの証拠により事実だったと確認されているが、脚色を加えられたサガの物語にはいわゆる歴史小説と同レベルの正確さしか期待できないかもしれない。
結局のところ、これまでにあげたさまざまな史料すべてを手がかりにすることで、ヴァイキングとは何者で何をしたのか、そしてより重要なこと、つまり何故そうしたのかがある程度わかってくる。粗野で毛深い暴徒の集団が行った無慈悲な殺戮という一般的なイメージが、必ずしも不当なわけではない。たしかにヴァイキングは略奪行為をしたし、美しく貴重な場所を破壊もした。彼らの襲撃を受けた人々は悲惨な思いをし、襲われた地域は混乱に見舞われた。彼らは出来事を記録し後世に伝える立場の人々の怒りを招き、人々はその怒りを長く記憶にとどめたことだろう。
キリスト教会は彼らの修道院を破壊するヴァイキングを恐れ、憎んだ。著名な聖職者たちは襲撃者の行為を記録し、広く知らせることに努めた。彼らが激怒したのは当然のことだ。しかし聖職者たちが記録したのは一方の側から見た歴史だった。結局のところ、ヴァイキングは襲った相手が悪かったせいで余計に悪評を立てられる羽目になったのだ。聖職者たちが残した記録のおかげで、彼らはその後長いあいだ敵意のこもった目で見られることになった。
ヴァイキングが暴力的な人々だったことは事実だ。交易を求めて探検に漕ぎ出す人々にとって、肉体的な強さと戦闘能力は欠くことのできない資質であり、彼らの住居、家族、共同体を敵から守るためにも男は強くなければならなかった。
ヴァイキングの視点から見れば、彼らの行動には真っ当な理由があった。中には暴力や破壊そのものを楽しんだメンバーもいたことは否定できないにしても、彼らの行為には経済的、政治的、社会的な理由があったのだ。彼らは見境なく人を殺す殺人狂ではなかった。略奪や移住をするにも彼らなりの理屈があったのだ。彼らが何かを手に入れるということは、他の誰かがそれを失うということだ。それが彼らの生きた時代の世界の在り方だった。強者が弱者から奪う世界、勇者こそが栄える世界だったのだ。
「名声」という言葉
たしかにヴァイキングは強く勇敢だった。彼らの文化においては何よりも名声が重視されていた。彼らは自分の偉業が人々の記憶に刻まれ、生きている人々のあいだで語りつがれていけば、自分はいつまでも生きていられると考えていた。短くても人々の記憶に残る人生のほうが、凡庸な人生を長く生きるよりも良いとされていた。名声は戦闘における勇敢な行為、鮮やかに船を操る技術、強さや巧妙さを競う競技会での勝利などによって得られるものだった。「ヴァイキングの怒り」は多くの場合、仲間からのプレッシャーと仲間に負けたくないという気持ちによって高められていた。世界の至る所でそのようなタイプの人々が勢力を伸ばしてきたのは決して不思議なことではない。彼らは機会さえあれば欲しいものを手に入れ、自分より弱い者のことは気にもかけなかった。
ヴァイキング時代
歴史上のヴァイキング時代は明確に区切られている。歴史家の定義によれば、西暦793年にヴァイキングがリンディスファーン[イングランド、ノーサンバーランド州北東岸沖のホリー島]を襲撃した血なまぐさい事件に始まり、1066年のヘイスティングズの戦い[ウィリアム征服王がハロルド2世のアングロサクソン軍を破った]で終わる。その約300年のあいだにヴァイキングの文化は大きく変化した。もっとも、ヴァイキングがもたらした変化のほうがより大きかったと言えるかもしれない。彼らはその後の社会に、計りしれないほど大きな影響を与えている。ヴァイキングが歴史に与えた影響、さらには今も残っている彼らの影響を知るには、彼らの行為と文化を、彼らがどこから来たどんな人々だったのかを検証し理解する必要がある。それは決して簡単なことではない。ヴァイキングの歴史は長いあいだ語りつがれるうちに伝説となり、誤りや誇張が加えられて必ずしも真実だけを伝えてはいないと思われるからだ。それでも、ヴァイキングの歴史が壮大な物語であることは間違いない。
793年にリンディスファーンに上陸したヴァイキングたちは、彼らが後世に得た名声を知ればさぞ喜ぶことだろう。彼らははるかな昔にこの世を去り、手に入れた品々は消え失せ、彼らの社会そのものがもはや存在しない。しかし彼らの偉業は21世紀の今も語りつがれている。そう考えれば、ヴァイキングは稀有な人々だったのだ。
[書き手]マーティン・J・ドハティ(歴史家、作家)
ギリシア神話、北欧神話、ヴァイキング、ケルト文化、古代の戦士、戦闘技術などさまざまなジャンルで執筆。数多くの歴史番組に出演し、コンサルタントを務めてきた。邦訳書に、『図説アーサー王と円卓の騎士――その歴史と伝説』(2017)、『[ヴィジュアル版]インド神話物語百科』(2021)、『[ヴィジュアル版]ローマ神話物語百科』(2022)などがある。