書評
『ウンベルト・エーコの世界文明講義』(河出書房新社)
重層する文明への史眼
中世以来、ヨーロッパでは「巨人の肩に乗った小人」という言い回しが好まれたという。そこに立てば巨人よりもずっと遠くを見ることができるからだ。その半面、もっとも時代の診断が下手なのはその時代を生きる者たちでもある。原著の表題『巨人の肩に乗って』も、語り手としての思想家エーコの重層する文明への史眼が感じられるのだ。著者は大学の卒論で中世神学者の美をめぐる問題を扱った。だが、五〇年の歳月を経ても、美の概念の答えは変わらなかったという。美とは人間が美とよぶすべてのものである、と。美しい人間は手に入らずとも讃(たた)えられるが、望ましい人間は所有できないなら苦痛になる。美の経験とは公平無私なところがあるのだ。
中世の怪物は霊的(スピリチュアル)な意味があり、醜いものではなかったという。十七世紀以後、「赤ずきん」の狼(おおかみ)、『ピノッキオの冒険』の火喰い親方、あるいは吸血鬼、幽霊たちが醜く恐ろしいものとして悪夢になった。だが、蒸気機関と機械の出現によって、「長い煙の蛇」(ディケンズ)がたち昇る街の醜さにも注目する。しかし、マセイス作の肖像画「グロテスクな女」でも恋い焦がれる男には讃美(さんび)されるもの。醜いものも美と同じように相対的なものにすぎないのだ。
そこで「絶対と相対」という問題に突きあたる。地球の形をめぐる議論で聖アウグスティヌスは球形説に傾いていたが、その事実を知ることは魂の救済には役立たないのだから、どうでもいいと思ったらしい。魂の救済こそが絶対の命題であったからだ。それとは逆に、近代では、とくにニーチェ以降、「事実は存在せず、あるのはたんなる解釈だけ」という考え方が横行している。だが、人間の死と貫通できない壁があるという事実は絶対ではないか、と著者は指摘する。つまり時空の範囲は否応(いやおう)なく限られているのだ。
そもそも世界はあやふやで揺れ動いているのに、なぜ人は「見えないもの」も信じるのだろうか。肉体としてのアンナ・カレーニナは存在したことがないのに、彼女は無慈悲な死を遂げたという架空の事実だけで、われわれの心を揺さぶる。古代人が神話を信じたように、近現代人にとって虚構の物語が読者の思考を占領することすらできるのだ。
そこから、中世の修道院を舞台に偽造文書の小説『薔薇(ばら)の名前』を書いた著者は、間違い、嘘(うそ)、偽造をめぐる実践に行きあたる。なによりも真実ほど注意を要するものはないという。真実を上手に語るのは、真実を上手に隠すのと同じくらいの優れた能力がいるからだ。歴史のなかには正当な「偽造文書」があるという。自分たちが信じている所有権や議定書であれば、それを示唆する文書は偽物ではないと思えたのだ。
ところで、名作映画「カサブランカ」は紋切り型の場面の寄せ集めにすぎず、監督ですら結末を予想していなかったらしい。イルザ(I・バーグマン)も一緒に旅立つのがリック(H・ボガート)なのかヴィクターなのか知るわけもない。それが二人の男のどちらを愛しているのか分からずにいるイルザのミステリアスな微笑の正体だという。だが、あらゆる原型が押し入ってくるとき、ホメロス風の奥深さに至るのだという芸術の不完全さをめぐる作品分析には唸(うな)らされる。
ほかにも、会員にすら知りえないフリーメーソンの秘密、あるいは妄想か事実か分からない陰謀などのテーマについて縦横無尽に思考する巨匠の姿が浮かび上がる。一〇年余にわたる連続講演をまとめただけに、錯綜(さくそう)する文明を解きほぐす連想のひらめきが心地よい読後感になった。
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