ものを書く女たちの肖像
年収五百ポンドと鍵のかけられる自分の部屋――女性が作家になるのにそれは最低限必要だとヴァージニア・ウルフはいった。『ダロウェイ夫人』『燈台へ』『波』の名作を書き、五十代の終わりに神経衰弱で自殺した彼女は、ものを書く女性の苦悩に、一貫して関心を寄せた。冒頭のスピーチ「女性にとっての職業」で、十シリング六ペンスあればシェイクスピアの全戯曲を書けるだけの原稿用紙が買えますと聴衆を挑発しながら、率直に作家であることの苦悩を語る。慎しみ深くなくてはならないというタブー、自分の意見や願望をもたず他の人びとの願望や意見にそって考えようとする誘惑、それを「家庭の天使」とウルフは名付け、インキ壺を投げつけてこれを殺さなければ、真の作家にはなれないと断言する。夫や子供の世話、妊娠や出産、男性の偏見、男がつくってきた言語……、余暇をもつ中産階級の女性にも障害は大きい。
本書『女性にとっての職業』(みすず書房)の六十三頁以降はそれでも〈語りたい自己〉を持って自己表白した女たちの肖像画である。
たとえば女権論者メアリ・ウルストンクラフトの「きわめて決然としていると同時にたいへん夢見がち、ひどく肉感的であると同時にきわめて理知的で、おまけにその大きな捲き毛と、ロバート・サウジーが出会ったうちでもっとも表情に富むと思った大きな輝いた眼をした美しい顔」。結婚は「あらゆる所有権の中で最悪のもの」といい、「同棲は愛を鈍らせる傾向がある」といったメアリは結局、妊娠によってウィリアム・ゴドウィンと結婚し、出産で死んだ。劇的な一生を、見事な観察と的確な引用とユーモアをもって書き尽くしている。
職業的女性作家が成立する前、女性の書く才能は主に「書簡集」の中で発揮された。もし「一八二七年に生まれていたら」小説を書いていただろうドロシー・オズボーンは一六二七年生まれ、恋人ウィリアム・テンプルを喜ばそうと書かれた手紙は、皮肉にとみ、虚栄や儀礼をからかい、周囲の人々を生き生きと描き出した。しかしドロシーは結婚して有能な外交官の夫人となり、手紙は書かれなくなった。ウルフのしゃれた結び。「三国同盟の恩恵とナイメジェン条約のすべての栄光を、ドロシーの書かれなかった手紙と引き換えたいと思う瞬間がある」
さまざまな人生がある。十八世紀、ロンドンで予約購読者をとりながら詩を書いたリティシア・ピルキントンは、貧困の中でも「陽気な精神と、どこか育ちのよいところ」があり、「死が迫り、督促状を枕もとに置いていても、冗談を飛ばし、鴨に舌鼓をうつことができた」。エライザ・ヘイウッドは「牧師と結婚し、夫のもとから逃げ、十八世紀初頭に自分のペンの力だけで、自分とおそらく二人の子どもを養っていた」。そのことには敬意を表しつつ、「死後おびただしい数の読むにたえないジャーナリズムの雑文を残した」と手厳しい。
笑い出さずにはおれなかったのは、十七世紀のニューカッスル公爵夫人。けばけばしい服装をし、星は燃えるゼリーかどうか、魚は海が塩辛いことを知っているかどうか、追い立てられる野兎の苦しみについて考え、書いて誤解と嘲笑の的となった。「彼女の哲学は役に立たず、劇は我慢できないような代物で、詩はおおむね退屈なものばかり」と酷評しつつ、彼女の風変わりで愛すべき人柄をうれしそうに書きつづる。
そうなのだ。自己をもち、夢想し、それを表現しようという横紙破りな女たちは、いつの時代にも「頭のおかしい公爵夫人」のように嘲笑されながら、「不朽の名声を心静かに信じ」るよりほかはなかったからである。
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