書物という「物」の中で生きている精神
『月曜か火曜』は、今からおよそ百年前の一九二一年にヴァージニア・ウルフが夫のレナード・ウルフとともに始めた出版社ホガース・プレスから出した短篇集であり、そこには後のウルフの長篇小説やエッセイへとつながる萌芽がいたるところに見出せる。さらに興味深いのは、本書がそのホガース・プレス版初版のいわば復刻を意図したものであり、原書に収録されていたヴァネッサ・ベルの木版画による装画四点と表紙絵が再現されている点だ。こちらの表紙に使われているのは、短篇「ある協会」に添えられた装画で、そこには積まれた何冊かの本を囲む三人の女たちが描かれている。この短篇は、形式的には本書の中で最も伝統的な手法に近く、読者にとって最もとっつきやすいものだろうが、内容はきわめて挑発的だ。「女が子を産んで、男は本や絵を生む」という固定観念に縛られた社会の中で、男たちの書いたものが駄作ばかりだということに気づいた女たちが、それなら男たちを産み出すのは時間の無駄ではなかったかという根本的な疑問に直面し、「質問協会」なるグループを作って、各自がさまざまな分野に潜伏し、その観察記録を持ち帰ろうとする物語である。アリストパネースの『女の平和』を想起させずにはおかない、この女性蔑視に対する異議申し立ては、強烈なストレートパンチでありながらも、それで小説が硬直してしまうことはない。作品のほぼ全体を通して流れる、男たちを揶揄するときのウルフのたぐいまれなユーモアが、この重いはずの作品を軽やかに仕立て上げている。
本書の扉絵は、原書の表紙に使われていたもので、そこには壁掛け用の円形の鏡と思われるものが描かれている。収録されている作品のひとつひとつがその鏡だとすれば、そこに映し出されるのは、なによりもまず、作者ウルフの精神の働きである。いわゆる「意識の流れ」という手法をはじめとして、そこにはウルフの刻々と変転する敏捷な精神の働きが、それこそ作品の主人公だと言ってもいいほどつねに存在している。わたしはウルフを読むたびに、清流の中でじっと身をひそませながら、いきなりすばやく動き出してはまた急に向きを変える魚の姿を思い浮かべるのだが、本書でウルフ自身がこう書いているのを発見した。「魚が自分のヒレで水を切りながら泳ぐように、自分の思索をひらひらと動かしながら世界を泳ぎまわり、睡蓮の茎で身をこすり、白いウニに摑まってゆらゆら揺れる……」(「壁のしみ」)
こうした敏捷な精神の働きが小説を書くという創作行為と直接につながったのが、「書かれなかった小説」という短篇である。添えられている装画に描かれているとおり、ここで観察の対象になっているのは、語り手の「私」が列車の中で出会った、不幸そうな表情をしている中年女性。語り手は目に映るわずかな手がかりから、ミニー・マーシュと仮に名付けたこの中年女性の物語を想像する。「ベネット氏とブラウン夫人」と題された有名なエッセイに書かれた、「あらゆる小説というものは、向かいの座席に座った老婦人から始まる」というウルフの主張がそのまま活かされたこの作品は、中年女性の物語が頓挫してしまうことで、たとえそれが長篇小説としては書かれなかったとしても、独特な短篇小説としての魅力を備えている。
ただ、扉絵の鏡に映るものは、なにもウルフの精神の働きだけではない。そこには、裏表紙に描かれた室内の景色、とりわけ椅子という、人間の意識とは無関係に存在している物も映っている。いつかは死を迎えて意識が途絶える、人間というふたしかな存在に対するものとして、ウルフはそうした堅固な物体に並々ならぬ関心を寄せていた。本書の最後に置かれている、傑出した短篇「壁のしみ」がその好例である。壁にしみのようなものを発見して、それは何だろうと思索をめぐらせるうちに、語り手はこう述懐する。「あの壁のしみに目を据えてみると、大海の中で板きれを摑んだ気がする。……まさにこれこそ確実なもの、現実のもの」。そして語り手は、自分が一本の樹木という「物」になってしまうところを想像する。こうして、ウルフの作品では、日常的な世界と哲学的な世界が自由な往復運動を繰り広げる。「いまこの瞬間、私がともかくも服を着て頑丈な家具に囲まれているのが不思議なくらい。だって人生を何かに喩(たと)えるなら、人生とは地下鉄の線路の上を時速五十マイルで吹き飛ばされるようなもの--向こう側の端に到着する頃には髪の毛のヘアピン一つ残っていない! 神の足元に丸裸で投げ出される!」といった文章を、いったいウルフ以外の誰が書けるだろうか。
ウルフが小型印刷機を買って自ら活字を拾い製本するほどにこだわった原書の復刻版である本書を、読者が手にとって、ウルフの時空を超えた思考の軌跡を追うとき、「書物」というたしかな手触りのある堅固な物体の中で、ウルフが百年以上も経ったいまもなお生きていることをわたしたちは実感するのだ。