書評
『アジアを読む』(みすず書房)
今に生きる中国文人の精神
よい書評の条件は三つあると、私はかねて考えている。第一に褒め上手であること、第二に粗筋を巧みに紹介すること、第三に褒めるに値する本を発見することである。張競さんの書評集『アジアを読む』(みすず書房)は、驚くべきことに、この三条件をほぼ完全に満たしている。順序を逆にして述べれば、まずその博捜(はくそう)ぶりが並たいていではない。渉猟されたのは一九九八年から二〇〇五年まで、八年間のおもに日本と中国に関する書物であるが、選ばれた数は優に八〇冊を超えている。この分野の新刊にこれほどの良書があったことを知って、私のような読者はまず蒙を啓かれる。
選ばれた本が褒めるに値することを示すには、当然、その中身を説得的に説明しなければならない。その点について張競さんの技量は群を抜いていて、しばしば書評だけを見てもとの本を読んだような気分にさせられる。辰巳正明の『詩の起原――東アジア文化圏の恋愛詩』の紹介など、丹念で簡明な要約に評者の主題についての見識が滲み出ている。
ウェイリー『袁枚(えんばい)―十八世紀中国の詩人』のような近代古典から、『蛇女の伝説――「白蛇伝」を追って東へ西へ』、『近代中国官民の日本視察』など、文学、歴史の本が関心の中心になるが、『文化大革命に到る道』といった政治史的な題材も忘れられていない。ただその場合も、張競さんの目は文化的な側面に注がれていて、中国では政治的な攻撃がまず文学を武器とし、文学への攻撃の体裁をとって始まるという、比較文化論が紹介される。
中国現代社会の苛烈な現実を告発した『神樹』を読んでも、評者は物語を克明に追ったうえで、ガルシア=マルケスなどラテン・アメリカ文学との比較も忘れない。都市化する中国の青春小説『上海ベイビー』を読めば、日本の『ベッドタイムアイズ』を想起しながら、原作の文体から日本語訳の質まで評価する。
亡命中国人の苦難を描いた『ある男の聖書』を評しては、二人称と三人称しか使わない特異な自伝小説として、まずは文芸学的な分析を示したのちに、その技法が現代の「屈原(くつげん)」を描くためにいかに有効かを指摘する。文芸批評の正道だろう。
こうして張競さんはつねに対象を分析的に読み解き、その結論として著者を暖かく褒める。批評とは評者が他人を借りて自分を誇示する手段ではなく、むしろ著者と読者を仲立ちしながら、ともに知的な共同体を築く仕事だと、この人は知っているからである。
ちなみにこの書評集は、その独特の編集によってもひと目を惹く。八年間の書評を編年体に集め、一年ごとに一章をたてて、それぞれに年譜風の解説が添えられる。その年々の政治や経済や社会風俗のうちで、目立ったものが付記されているのである。印象深いのは記録された事件の切実さと、それを横目に読書に耽(ふけ)る張競さんの態度との対照である。
たとえば二〇〇一年、9・11事件が勃発して、アメリカはイラク攻撃を決断した。国連が人口爆発を予言する一方、日本では少子化が確実視され、にもかかわらず皮肉にも幼児虐待の報道が跡を絶たない。この過酷な現実を凝視しながら、張競さんは深く中国の古典やアジアの恋愛詩に没頭しているのである。
これは書評の歴史的な背景を語るというより、それに惑わされない知識人の内面の強さを語るものではなかろうか。はしなくも感じるのは、日本人より厳しい現実を生き、四千年を閲(けみ)した中国の伝統的な文人の精神である。
【この書評が収録されている書籍】