書評

『破滅者』(みすず書房)

  • 2020/01/25
破滅者 / トーマス・ベルンハルト
破滅者
  • 著者:トーマス・ベルンハルト
  • 翻訳:岩下 眞好
  • 出版社:みすず書房
  • 装丁:単行本(392ページ)
  • 発売日:2019-11-11
  • ISBN-10:4622088460
  • ISBN-13:978-4622088462
内容紹介:
グレン・グールドを主要人物にした『破滅者』と『ウィトゲンシュタインの甥』の二編の音楽小説にして、著者独自の真骨頂をしるす書。

「わかる」ことの悲劇と救い

「わかる」ことは、人を孤独にする。わからないすべての他人を敵に廻し、わかり知る密室に閉じこもることになるからである。

とくにわかる対象が自然物ではなく、人間の知恵や才能である場合、事態は致命的な悲劇となる。他人の優越がわかればわかるほど、人は自分にはそれができないことが切実にわかり、自分自身をも見下して、孤独を深めるほかはない。

もっと悪いのは、しばしばわかる人は当面の好悪の対象だけでなく、あらゆる世事について独特の趣味判断を抱くことが多い。音楽の深奥をわかる人は、万事につけてあたかも音楽を聞き分けるかのように、とかく過度に繊細で狷介(けんかい)な態度をとりがちになる。

ベルンハルトの小説集『破滅者』は、二編の中編作品、表題作と「ヴィトゲンシュタインの甥」からなっているが、いずれも要約すればこの「わかる」人の「わかる」がゆえの悲劇だといえる。二作とも主人公がわかるのは音楽だが、尋常ならぬわかり方が彼らを狂わせ、ついには自殺へと導いてゆく。

「破滅者」の人物はピアニスト、グレン・グールドとその同門の友人、それに「私」の三人だけ、「ヴィトゲンシュタインの甥」では当の甥と「私」の二人しかクローズ・アップされない。この設定そのものが巧妙であって、登場人物の孤独と閉鎖感が他の添景人物との対比において浮き彫りにされる。

もちろん話者の「私」も孤独な一人だが、狂って死ぬのは前者では最後までグレン・グールドと技を競った友人であり、後者では大哲学者の甥に生まれて別の道を選んだ音楽通である。どちらも孤独な天才の傍らにいて、その孤独を共有できないとわかるがゆえに、いやがうえにも孤独に沈む悲運の才能である。

グレンは「ゴルトベルク変奏曲」を偏愛して、ベートーヴェンもショパンも軽蔑していた。自殺する友人も好みを同じくしながら、その演奏能力を同じくしえず、しかもその屈辱を痛いほどわかる能力を備えていた。ヴィトゲンシュタインの甥もやはり天才を身近に持って、その事実を痛切にわかるがゆえに、みずからも天才であるべしという強迫観念に迫られる。眼高手低を宿命とする二人は、わかる感性とできる技能との乖離(かいり)と、その現実がわかることによって追い詰められる。

本来、心の苦痛は自分を表現することで救われるものだが、彼らにはそれもできない。表現はわかってくれる適切な相手を期待して営む行為だが、わかる人はわかる内容が深ければ深いほど、始めから他人にはわからないという思いに妨げられるからである。

見るからに息づまる孤独の深刻さだが、作者は「私」の話法そのものによってそれを見守る苦痛を活写する。まず「ヴィトゲンシュタインの甥」では、邦訳一四〇ページに改行が一箇所もなく、「破滅者」では冒頭の三節を除いて二〇〇ページに改行がない。

当然、話者の叙述には過去、未来の分節がなく、物語としての時間構成が失われる。全篇、話者は思い出を思い出すままに呟くのであって、自動記述法(オートマティズム)に似たこの文体が狂気の進行の閉塞感に重なり合う。また世間の健全者の傲慢、俗物性への激怒を示すべく、あえて叙述の反復、混乱を隠そうとしない。

文体が直接に主題を表現する前衛的な手法がみごとだが、その厭世観も読み終わると救いがなくもない。人は誰しも自分だけにわかる何ものかがあるわけで、狂気には到らなくともその意味で人生共苦のなかにいるからである。
破滅者 / トーマス・ベルンハルト
破滅者
  • 著者:トーマス・ベルンハルト
  • 翻訳:岩下 眞好
  • 出版社:みすず書房
  • 装丁:単行本(392ページ)
  • 発売日:2019-11-11
  • ISBN-10:4622088460
  • ISBN-13:978-4622088462
内容紹介:
グレン・グールドを主要人物にした『破滅者』と『ウィトゲンシュタインの甥』の二編の音楽小説にして、著者独自の真骨頂をしるす書。

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毎日新聞

毎日新聞 2020年1月12日

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