書評
『外人部隊』(国書刊行会)
現代に通用、絶望感流れる戦争小説
外人部隊といえば、『モロッコ』と『ボー・ジェスト』のゲーリー・クーパーか、『地の果てを行く』のジャン・ギャバン。前者は優美、後者は豪胆と対照的なキャラクターだが、ともに、命を惜しまぬ男伊達(おとこだて)、ニヒルでロマンチックな根無し草というのが通り相場だろう。だが、これはむろんハリウッドとフランスが作りあげた美しい映画の神話にほかならず、たとえば『地の果てを行く』のマッコルランの原作は、勇猛果敢なデュヴィヴィエ監督版より、はるかに重苦しい幻滅につつまれている。
マッコルランは第一次世界大戦後のニヒリスティックな風土を生きる作家で、サンドラールやセリーヌとの精神的親近性を感じさせるが、この『外人部隊』のフリードリヒ・グラウザーもまた、スイス出身のドイツ語作家でありながら、まぎれもなくサンドラールやセリーヌと比較されるべき尖鋭(せんえい)的な作家である。グラウザーが真価を発揮した本作は、マッコルランを完全に顔色なからしめる絶望的な苦さを発している。発表当時(一九四〇年、作者の死の二年後)ほとんど評判にならなかったのも無理はない。その戦争観は時代に先行しすぎていた。あまりにも現代的なペシミズムにみちているのだ。
グラウザーは十九世紀末ウィーンに生まれ、ダダイズムに最年少のメンバーとして参加し、モルヒネ中毒で父親により精神病院に強制隔離された。本書に併録された『モルヒネ』には、その辺の事情と麻薬哲学が語られている。そして、一九二〇年代はじめに、フランスの外人部隊に入り、モロッコで現地のパルチザンとの戦闘に就く。その経験を基に『外人部隊』を完成し、ほどなく亡くなる。享年四十二。
『外人部隊』は戦争小説だが、戦闘場面はほとんどない。そのかわりに描かれるのは、麻薬や犯罪や革命で国を捨て、外人部隊に身を投じたはぐれ者たちの、アルコール耽溺(何しろ朝起きると兵隊はみんな焼酎をひっかけるのだ)、刃傷沙汰、男色、セックス、あげくの果ては発狂。一応、作者自身を投影したレースという主人公がいて、この男の物資横流し、公金横領から、腕を切っての自殺未遂(作者の実体験)にいたる話が主筋にはなっているが、二十人を超すあらくれ者の個性を彩り豊かに描きわけるところに、この小説の醍醐味がある。
戦争は戦闘ではない。未来への展望を禁じられた、痛ましい現在の果てしない持続である。作品の底辺を一貫して流れるこの絶望的な感覚は、第一次大戦の無差別大量殺戮という経験と切り離せないものであり、ここに『外人部隊』の戦争観の現代に通用する鋭さがある。
なお、この翻訳は先ごろ逝去された種村季弘氏の遺業であり、終生、デラシネ(根無し草)的精神を飄々と体現された種村氏に、まことにふさわしい無国籍的一作である。
朝日新聞 2004年09月26日
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