読みたくなる鏡花
泉鏡花はその名のほどにはよまれていない作家ではないかと思うことがある。鏡花作品といえば、比較的初期の『照葉狂言』、『薬草取』、『高野聖』、あるいは中期の『春昼』や『草迷宮』、戯曲なら『天守物語』、後は晩年の『縷紅新草』あたりの名を挙げるか、それとも新派のレパートリーとしてかならずしも鏡花自身の脚色によらない『婦系図』や『日本橋』の舞台を思い浮かべるのが、平均的反応ではなかろうか。高名な作家であるわりに手軽に読めるテクストがすくなかったということもある。岩波版鏡花全集は別格として、手近にテクストを入手しようとすれば、まず戦前円本時代の改造社版日本文学全集や春陽堂版明治大正文学全集の「泉鏡花」の巻を古本屋で探すというのが、すくなくとも昭和初年生まれの私などの世代のほぼ戦後五十年間の共通体験だったのではないかと思う。
一九六〇年代末頃から鏡花再評価の機運がきざしたものの、実際に手軽に読めるテクストとなると、めぼしいところでは寺田透・村松定孝編「鏡花小説・戯曲選」(岩波書店)のようやくここ十年ばかりの間の刊行が思い当たるくらいである。文庫本では川村二郎編などによる岩波文庫が数点。これだけ文庫ばやりの出版界に、鏡花の文庫全集とはいわぬまでも、主要作品を網羅した文庫集成がないのは不釣合ではないのか。
まずは読書現場にいる人間としてのそんな欲求が筆者の側にあったところへ、筑摩書房編集部から声がかかったのがもう七年ばかり過ぎ、一昨年秋には刊行にこぎ着けたが、読者の評判が上々とかで、当初予定の短篇中心の十巻本集成にさらに長篇四作の続巻を追加することになった(ALLREVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1997年)。併せて全十四巻のその泉鏡花文庫集成の編集がここへきてようやく完了した。思えば長い鏡花とのつき合いであった。
さて、せっかく新たに文庫版集成を編むからにはなるべく先人の選に漏れた作品を多く集めてみたい――そう考えるのが、端的にいって編者の当然の野心でもあれば、何よりも読者の要望にこたえる義務であるには違いない。しかしそうした気負いは所詮気負いに過ぎなくて、はじめに作品名を挙げたような、いわゆる鏡花文学のレパートリーともいうべきいくつかの代表作を頭から無視するわけにも行かない。では、従来通りの鏡花文学の数々を網羅しながら、それを毛色の変わった新顔と組み合わせることで従来的鏡花文学そのものが新たな照明の下で面目を一新する、というのはどうだろうか。
たとえば『蒟蒻本』には、白露という蠟燭に灯をともして寝る|遊女《おいらん》がいなくなるとその身代わりに、巨大な蠟のかたまりに長襦袢を着せて愛撫する男が出てくる。こちらでは落語仕立てだが、長篇の『由縁の女』ではそれが斑猫の毒で身体中がどろどろにただれたお揚という上﨟に悪運が転移された格好で、同じようにのっぺらぼうと化した女体がまた登場する。『由縁の女』のほうは崇高美の外見をまとっているが、事の本質は『蒟蒻本』の蠟燭のかたまりという物質に化けた遊女と変わりがない。両者とも冥府に降って、死肉と化して目鼻も「とろろぎ」たイザナミの姿にさかのぼる、神話のなかの恐ろしい女神像であろう。
こういう軽い、あるいは品下る趣向を設定した上で、崇高美に通じるような神話的元型の構図を打ち明ける物語が、明治の終わりから大正の初期にかけての鏡花のさほど目立たない一連の作品にはある。本集成でいえば六巻から九巻あたりまでに収録されている作品がそれだ。そのあたりの、おもしろくて軽い、けれども裏を返せば神話的構図が鮮明に際立つ、パラドキシカルな作品をいささか重点的に選んだのが、本集成の特徴といえばいえなくもない。
鏡花世界を現代のほうへ引き寄せてみるとなおのことおもしろい。谷崎潤一郎や石川淳の、あるいは三島由紀夫のある種の作品に鏡花世界との類縁が見られることはこれまでにも指摘されてきたが、それとは別に、鏡花のエンターテナー的資質の生んだ、軽い作品には、意識的・無意識的に意外な共鳴者がある可能性がある。たとえば山田風太郎の明治物に登場する川路大警視は、鏡花の『わか紫』の奇怪な警部長にそっくりではないか。あるいは深沢七郎の、たとえば『絢爛の椅子』のようなアドレッサンス小説は、人形浄瑠璃の世界とも一脈相通じるけれども、鏡花の『星女郎』の非情残酷な美少女たちの世界にも通じるセンスがありはしないか。
といったように鏡花から事後的に派生してくる問題もずいぶんおもしろそうだ。いわゆる鏡花文学はちょっと、という人も、ここらあたりから食いついてみると意外に病みつきになりはすまいか。そうなってくれれば編者としては冥利に尽きる。