近代人としての鏡花
先日、江戸川乱歩原作、三島由紀夫脚本の舞台『黒蜥蜴』を観た際、私は、美輪明宏氏扮する怪盗・黒蜥蜴が、功のあった部下に「爬虫類の位」を授け、彼らを「青い亀」だとか、「黄色い鰐」などと呼ぶユーモラスな場面を見て、すぐに「ああ、これは鏡花だな。」と思いました。黒蜥蜴は、作品の中では、理知の具現者であり、秩序の番人である明智小五郎に対し、犯罪者という秩序逸脱者(そして時にその積極的な転倒者)の役割を与えられているのですが、その彼女が蜥蜴という、人間ではない、しかも人間よりも進化の程度でいえば数段劣る生物の名を名乗り、また、彼女の部下達も、「爬虫類の位」に叙せられることによって初めて一人前に扱われるようになるというあたりの発想は、『海神別荘』や『夜叉ヶ池』、『天守物語』といった鏡花作品に多くを負っていると見て間違いないでしょう。私が今、名前を挙げた三つの戯曲は、現在でも上演機会に恵まれる人気作品で、実際に鏡花以外の一体誰にこんな話が書けただろうかというような、いかにも鏡花らしい独特の魅力を備えていますが、しかし、一旦それらを鏡花の全作品中に置いて眺めてみますと、意外にこの三作は異彩を放って見えます。その理由は、設定にあります。
鏡花といえばお化けというほど、彼の作品には度々、幽霊、あるいは魑魅魍魎の類が登場しますが、それらは殆どの場合、人間の世界の側から、人間にとって何か異質な存在として描かれています。鏡花の作品には、大抵「出会い」があります。それが、登場人物に「語り」を促し、その「語り」が作品の主題となるべき、更に本質的な「出会い」の経験を過去から明るみに出す、あるいは未来に導くというのが、『高野聖』や『歌行燈』といった代表作を典型とするように、鏡花の小説の一つのパターンです。鏡花の小説を動かすのが、名詞の過剰な使用によるモザイク状の地の文よりも、寧ろ大いに会話であるのはそのためです。そして、その「語り」の中で、聞き手である登場人物と同様に、読者が「出会う」こととなるのは、この世界に開いた一つの裂け目であり、それが幽霊のような具体的な表象を採ることもあれば、『南地心中』や『笹色紅』のように異様な事件という形を採ることもあります。
ところが、『海神別荘』『天守物語』『夜叉ヶ池』は、いずれも異界の側から、そこに生きる者達の目で人間及びその世界を描き出してみせます(『夜叉ヶ池』は、前二者とはやや異なり、白雪姫や眷属達は、作品の中心に位置しているわけではありませんが、同様の効果は十分に得られています)。その語り口は貴族的で、恬淡としていて、いかにも人間など取るに足らぬといった雰囲気です。海神である公子や、白鷺城の天守閣に棲みつく富姫、亀の城の亀姫、夜叉ヶ池の白雪姫は、自然の力を操作する能力に於いては、実際に、遥かに人間達を凌駕しており(大雨を降らせたり、津波を起こしたり)、時折彼らの生活を俯瞰してみては、その不思議に首を傾げ、手下の眷属達に教えられて、笑ったりしています。しかも、彼らの描き方は、恐ろしく、不気味である以上に、チャーミングです。たとえば、海神の公子は、或る程度の基礎知識がある者にだけ、ページの活字が読めるという百科事典が白紙に見えてしまい、「恥入るね。」とぽつりと漏らしたりします。また、娘を嫁に遣る身の代の豪華さに、「一命も捧げ奉る」と感謝した父親の言葉を聴くと、「親仁の命などは御免だな、そんな魂を引取ると、海月(くらげ)が殖えて、迷惑をするよ。」と微笑し、お付きの者達を笑わせます、富姫と亀姫も、城下から武士達が矢を放ってみても、「ほゝゝ、皆が花火線香をお焚き――然うすると、鉄砲の火で、この天守が燃えると思って、吃驚して打たなく成るから。」と打笑んで済ませます。白雪姫は、人間との間に先祖が交わした約束のために恋の成就が妨げられ、それについて姥から諭されると、「知つています。」と、「つんとひぞる(すねる)」のです。
これらは皆、些細な仕草、あるいは言動として挿入されているに過ぎませんが、彼らの愛すべき性格を十分に表しています。彼らはおしなべて子供のように無邪気で、世知(!)に乏しく、ただ自分の望む通りに生き、またそれを可能とする力に恵まれています。この時、人間の世界は、いかにも滑稽に相対化されています。人間達を苦しめているのは、端的に言って「不自由」です。彼らは、あまりに簡単に死に、自然に対しては無力で、しかも様々な因習や制度に雁字搦めにされています。鏡花の作品には、非常に頻繁に「緊縛」のモティーフが登場しますが(『夜叉ヶ池』『笹色紅』『縷紅新草』等々)、その反復は、性的な解釈とは別に、人間に課せられたそうした限界の表現として読むことが出来るかもしれません。『夜叉ヶ池』で百合を捕縛するのは、村人である以上に村に伝わる迷信です。そして、鏡花の大半の作品は、実はそうした拘束の中で藻掻き、あるいは脱出を試み、あるいは破滅する人間達の姿を描いたものではないでしょうか。その時、鏡花の小説のダイナミズムは、恐らく幻想である以上に情念でしょう。登場人物達が導かれるのは、心の理であり(鏡花の小説の登場人物達が、しょっちゅう「莞爾(にっこり)」と微笑んでみせるのは、あきらかに相手に対するデリケートな心理的配慮です)、恋愛――殊に花柳界のそれ――は、束縛に抗うその最も強い力の表現として鏡花が執拗に拘り続けた主題です。
その意味で、これら三つの戯曲は、鏡花の目に映っていた人の世の「不自由」を、まったく「自由」に生きる者達の目を通じて、裏側から描いて見せたということが出来るでしょうし、ひいては鏡花の文学世界全体を逆光によって再び鮮やかに照らし出してみせたものだとも言い得るでしょう。
この時、神秘的な幻想家、耽美的な芸術至上主義者という一般によく知られた鏡花の顔から、また一つ別の、意外な表情が浮かび上がってきます。それは、『夜叉ヶ池』の中で、萩原晃が口にする「人は、心のまゝに活きねばならない。」という言葉、あるいはそれと表裏をなすように富姫が言う「こゝは私の心一つ、掟なぞは何にもない。」という言葉が端的に示している、近代的でリベラルな鏡花です。実際に『天守物語』『夜叉ヶ池』が各々戯画化してみせるのは、封建社会の理不尽な制度であり、また、エゴイズムと結びついた不合理な因習です。
さて、こうした観点から見ると、鏡花が金沢という小京都的な土地に生まれ、後には東京に移り住んで、江戸っ子以上に江戸っ子的な生活を営んでいたという事実は、彼の作品の読解に新しい視点を与えることでしょう。何故なら、彼が多く作品に取り上げた地方の村落こそは、依然、様々な前時代的な束縛が張り巡らされていた場所だったからであり、東京はそれからの脱却の急先鋒の都市だったからです。今回の選集の意義は、恐らくそこにあるでしょう。が、これについては、残念ながら別稿をまたねばならないようです。
【この解説が収録されている書籍】