書評

『美学への招待 増補版』(中央公論新社)

  • 2019/10/06
美学への招待 増補版 / 佐々木 健一
美学への招待 増補版
  • 著者:佐々木 健一
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:新書(316ページ)
  • 発売日:2019-07-19
  • ISBN-10:4121917413
  • ISBN-13:978-4121917416
内容紹介:
藝術に対し抱く素朴な感想や疑問を手がかりに解きほぐす美学入門。二〇〇四年発売のロングセラーを増補。九章と一〇章を書き下ろし

「作る」ことに恵みとして与えられる美

長らく「真・善・美」という価値基準があった。だが現代、真は科学の専門分化によって難解となり、一般人の参加を許さなくなった。善は宗教的な禁忌が解けて、人が罪の自覚を失うとともに、語る人が少なくなった。ひとり美だけが生き延びたらしく、「カワユイ」「ウザイ」「カッコイイ」などと、感性的な価値判断が人口に膾炙(かいしゃ)している。

ところがその美の世界の中心に立ち、美学と芸術学を専攻する著者は、むしろ危機感に満ちた表情で筆を起こす。著者によれば、近代に感性を一元的な原理として誕生し、美と芸術を統一的に捉えてきた「美学」はすでに崩壊したからである。なにしろ芸術は感性ではわからないもの、「醜いもの」を含むようになり、二〇世紀以降、芸術ファンを二分しながら全体として変質を遂げている。一方、感性はセンスと呼び換えられ、スポーツや日常風俗の批評原理にまで拡張された。

この転換期に、著者は恐るべき博識と柔軟な理解力を披露し、転換期の前後をそれぞれみごとに説明する。視野の広さは歴史の縦横に及び、たとえば近代美学の萌芽(ほうが)をカスティリオーネの「廷臣論」に見たりする。宮廷での昇進が出自よりも本人の魅力によって決まる時代になり、人が魅力を意識し始めたところに美学の背景があるというのである。

この社会学的な観点は一貫していて、近代美学の終焉もまた二〇世紀の文明の変化、産業化の飛躍、グローバル化、複製をはじめとする情報技術の発展などから説明される。

一九一七年、M・デュシャンは「泉」と題して、大量生産の便器を美術展に出品した。六四年、A・ウォーホルは商品の段ボール箱を複製して、それを自分の作品だと自称した。本質的には二つは別のものだが、ともに従来の素朴な鑑賞者を辟易(へきえき)させるには十分だった。今ではいわゆる伝統的な芸術だけを愛するファンが、同時代の芸術の愛好家を上回るという、歴史上これまでにない珍事が起こっている。

著者の蘊蓄(うんちく)は小評では紹介しきれないが、古くは美術館の淵源(えんげん)、オペラ劇場の起源、遠近法を応用した最初の舞台装置、さらにミューズの女神九柱の個別名、「第六感」を最初に語ったのがシャフツベリーだったという逸話など、ほとほと驚嘆のほかはない。新しくは現代の十二音音楽について、具体的な技法を詳しく解説したうえ、アンチテアトルの代表作『禿(はげ)の歌姫』をめぐっては、誤解にもとづく滑稽な演出の歴史を語るありさまである。

博識はそれ自体で読むに値するが、この著者にはそれが自己の思考を進める独自の方法になっている。この人は思いつきが一気呵成(かせい)に展開するのを嫌い、あえて身辺の「問題の列挙」に立ち寄って、結論に向けた包囲陣を敷くことを好んでいるように見える。

巻の半ば、著者は難解な現代芸術作品を理解するために、作家の意図ではなくて、作品そのものに内在する意図を探ることを提案する。in―tensionと呼ばれるそれは、作品が内に孕(はら)む緊張であり、ゲームの隠れた規則であって、一瞬に総合的に働く感性によって直接に把握できるものである。これは魅力的な発想だし、敷衍(ふえん)すればこのまま結論にもなりそうに見えるのだが、著者はそうはしない。

また現代、何が芸術かを決める基準についても、「アートワールド」という興味深い概念を紹介する。芸術家、評論家、学者など、専門家の共同体の総意のことだが、これも著者は注目するに留めて結論とはしない。

上梓から一五年、版を重ねてついに増補版に達した本書だが、二章にわたる今回の大幅な増補の最後の最後に、ようやく私の期待するこの著者の結論があった。例の如く現代美学の諸学説を渉猟したのちに、著者はにわかに「作る」ことの意義に立ち返るのである。

人は手でものを作るが、ときに標準的な目的の達成で満足しないことがある。必要を超え、事前の設計を超え、手がこれで「よし」という限界まで作り進むことがある。このとき「よし」と見えるのが美なのであって、美は「手の恵み」にほかならないのである。

この「手」は人の意図を超え、作品そのものの内発的現象、著者の先の用語によればin―tensionの現れなのだから、作家から見れば「むこうからやってくるもの」「恵みとして与えられるもの」というほかはない。作家は終わりなく手に任せて作り続け、その結果、どこからか恩寵のように天降る満足、人事は果たしたという達成感が美なのである。

この美学は一面では伝統を支持し、過去のすべての芸術作品を包括しうるとともに、現代芸術と職人技術の大部分を説明できる。一方、悪(あ)しき職人仕事は排除できるうえに、現代芸術のうちで極度に観念的な表現、デュシャンの「泉」も拒否できる利点がある。

ちなみに、人生そのものを「向こうからやってくるもの」、天与の「リズム」に乗せられることだと考える私にとって、これは思いがけなく我が意を得た美学説となった。
美学への招待 増補版 / 佐々木 健一
美学への招待 増補版
  • 著者:佐々木 健一
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:新書(316ページ)
  • 発売日:2019-07-19
  • ISBN-10:4121917413
  • ISBN-13:978-4121917416
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藝術に対し抱く素朴な感想や疑問を手がかりに解きほぐす美学入門。二〇〇四年発売のロングセラーを増補。九章と一〇章を書き下ろし

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2019年9月8日

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