書評

『レイシズム』(講談社)

  • 2020/07/28
レイシズム / ルース・ベネディクト
レイシズム
  • 著者:ルース・ベネディクト
  • 翻訳:阿部 大樹
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(224ページ)
  • 発売日:2020-04-10
  • ISBN-10:4065193877
  • ISBN-13:978-4065193877
内容紹介:
レイシズムは科学のふりをした迷信である。純粋な人種や民族など存在しない。ナチスが台頭する時代、『菊と刀』の著者が鳴らす警鐘。

意識的な差別を拒絶した後に

左利きのための鋏が発売されたのは、二十世紀も半ばのことであった。私の幼年期、親も学校も左利きの子を右利きに矯正する教育に励んでいた。私は眺めていただけだが、今の基準ではあれは無意識の差別だった。

1940年、世界はきわめて意識的な差別感情に襲われ、差別をめぐる大戦の渦中に脅えていた。新しい差別の口実は「人種(レイス)」と呼ばれ、十九世紀末に遡(さかのぼ)る似非科学を根拠としていた。従来の宗教的異端、階層差や言語、風俗にもとづく差別とは異なり、人種は肌の色や頭蓋骨の形態など遺伝形質に注目する点で、差別はかつてなく宿命的な重みを増すことになった。著者はこの時期に本書の筆を執り、人種差別の無根拠を暴き、欺瞞に反対する史上最初の人となった。

当然、筆法は論争的となり、ナチスの掲げる「アーリア人種」が虚構にすぎず、歴史的にも人類学的にも破廉恥な嘘であることが暴露される。ユダヤ人迫害が異教排斥でも異文化排除でもなく、じつは殺害を伴う財産強奪にすぎなかったことも告発される。第二次大戦の勃発はその前年だから、著者の主張は結果として、連合軍の対独開戦の理論的根拠、宣戦の理念の表明にもなっている。

だがその後の著者の本旨を辿ってゆくと、やがて人種差別はナチズムのような世界観ではなく、もっと曖昧な因襲に根ざして芽生えた悪徳だったことがわかる。古典といえるゴビノーの『人種不平等論』も、未来社会への展望を欠いた、凋落貴族の憤懣の吐露にすぎなかった。肌の色で差別された最初の人種はアメリカ先住民だが、迫害した英国系白人には人種差別の理論などなく、もっぱら空いた土地が欲しいだけであった。

もっとも人種差別の真の怖さはこの非論理性にあって、駁論(ばくろん)によって排除できないという点にあるのかもしれない。著者は巻末に近づくと、差別を生む社会的な土壌の側に目を向け、それを防ぐべく福祉政策の必要を説いている。黒人差別が貧困白人のあいだで強いという事実に鑑みると、福祉は差別集団を含む全国民を潤さなければならない。人々に平等を保障する民主主義と、それに原資を供給する「ソーシャル・エンジニアリング」、国土建設、土壌保全、医療や教育、国民購買力の向上をめざす政策が不可欠になる。

いずれもニューディール時代の政策であって、著者はいかにも「時代の子」として誇り高く巻を閉じている。少なくともこの著書に関するかぎり、高説の内容に隙はなく、現代にも適用可能な社会理論として、新訳に値する成功を収めたことは間違いない。

一方、差別問題そのものは本書が古典となった現在、近代が世界化するなかでむしろ複雑化し、先に触れた無意識の差別、左利きの矯正を犯し始めていないだろうか。近代化は価値の体系だから、多様な「後進」文化の価値観と衝突し、無意識どころか、善意によってそれを抹殺する危険を秘めている。じつは著者の専攻する文化人類学も、前近代文化を主な対象として、客観的に観察する旨を標榜している。だが文化は自然現象ではないのだから、客観的に観察する姿勢はそれ自体、正当なのだろうか。とりあえず人類学は異文化を語る古老を情報提供者(インフォーマント)と呼ぶのをやめ、「お師匠さん」と敬うべきではないだろうか。
レイシズム / ルース・ベネディクト
レイシズム
  • 著者:ルース・ベネディクト
  • 翻訳:阿部 大樹
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(224ページ)
  • 発売日:2020-04-10
  • ISBN-10:4065193877
  • ISBN-13:978-4065193877
内容紹介:
レイシズムは科学のふりをした迷信である。純粋な人種や民族など存在しない。ナチスが台頭する時代、『菊と刀』の著者が鳴らす警鐘。

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毎日新聞

毎日新聞 2020年5月23日

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