書評
『性の歴史 4 肉の告白』(新潮社)
「欲望の主体」である自己を見つめる
ホラホラ、これが僕の骨だ、 生きてゐた時の苦労にみちた あのけがらはしい肉を破つて、
中原中也の「骨」という詩の冒頭の一句である。この「肉」とはフーコー最後の大作「性の歴史」の第Ⅳ巻『肉の告白』の示唆するところだろう。なぜ、いつから、どのようにして人間は「肉」事を汚らわしいと思うようになったのだろうか。問題は単純なことだが、人間の根幹をなすから困惑することになる。
そもそも、第Ⅰ巻『知への意志』をめぐっては、西洋の外では「性愛の術」が求められたのに、西洋では「性の科学」が問われつづけたという俗っぽい理解の仕方があった。だが、「性」を抑圧・禁止ととらえるよりも、そこには「性」を言説化しようとする社会全体の要請が潜んでいたことが指摘されたのである。しかしながら、この原著が一九七六年に出版されながら、フーコーの企画は大きく変更され、その後の二巻が出たのは八年後だった。
第Ⅱ巻『快楽の活用』においては、フーコーの視線は、歴史をさかのぼり、古代世界に向かう。それは、「自己の技術」を主題にして、「欲望の解読」の系譜学をたどることになる。まずは古典古代のギリシアがとりあげられ、性の活動がかなり自由であったことが注目される。だが、若者愛が恋愛術のごとく語られるとともに、性と快楽の問題は節制の原則をもつ「生存の美学」として磨かれるのだ。それは他者への支配力に結びつくことにもなる。
第Ⅲ巻『自己への配慮』は、ローマ帝政期の性行動をめぐって、節制が深まっていく様相のなかで考察される。しかし、節制の伝統が強化されるというよりも、自己へのまなざしを研ぎ澄まし、「生存の技法」を築き上げていくことだった。ギリシアでは自己の統御が他者の統御に結びつきかねなかったが、ローマではむしろ自己に専心するという原則が拡がることになる。だが、問題となるのは快楽を使用しながら節制することであり、欲望の主体そのものを解読するにはいたっていないのである。
周知のようにフーコーは三十数年前に急逝したが、生前に第Ⅳ巻の原稿は書き上げられ出版社に委ねられていたという。だが、著者の遺志にもとづき未刊のままだったが、権利継承者の許可と編集作業を経て、やっと日の目をみることになった。
まず、予想されることは、ギリシア・ローマの異教時代における節制の性倫理とキリスト教における禁欲の性倫理との関連についての問いかけである。見過ごせないのは、キリスト教とともに、性行為をめぐって、寛容な規範から抑圧的な規範への移行がおこったわけではないことだ。
確かに、結婚と子づくりについての規範は、キリスト教以前にすでに始まっていた。結婚の絆は子づくりだけが核ではなかった。しかし、キリスト教の普及につれて、新たな経験が徐々に形をなしつつあり、自己の「肉」が経験の一様態として感知される。自己を認識し、心の奥底にまで光をともし、贖罪を通じての救済への道。このとき自己の認識と変容のために練り上げられた一つの経験形態が生まれ、個人の技法としての悔い改めが意識され、さらには修道制の修練に仕立てられる。
これらの経験の中で、処女や童貞にある種の価値が付与されたが、それは有名な聖書の一節「男は女に触れない方がよい」(『コリントの信徒への手紙一』七の一)に従っており、自己の放棄であり、それとともに清らかさという目標が浮かび上がる。
といえども、最初期のキリスト教に、自己に目を向け、自分の欲望を解釈して、そこに自分の真理を探究するという姿勢があったわけではない。その努力は、二世紀から五世紀にかけて、悔い改めの実践がくりかえされ、修道制が発達し、処女・童貞および結婚をめぐる考察が変容するなかで形成されたのだ。
それらの思想の系譜について、四~五世紀の教父作家アウグスティヌスやカッシアヌスなどのテキストを分析しながら、その深層の底流を明らかにする。瞠目すべきは、「悔い改め」はすぐに「告白」を導くものではなかったことだ。おそらく「告白」が呼び入れられるところに、キリスト教ヨーロッパの独自性があるのではないだろうか。
自己の自己に対する関係のなかで、性的欲望という正体不明の悪徳がきわだってくる。しかも、両性の間の肉体の交わりよりも、自分自身の身体と魂にまとわりつく情欲のうごめきこそが自身にとっての手ごわい敵である。肉体の交わりは「結婚の善」として認められるが、情欲は非意志的なものとして、自己の主体に組み入れられ、自己を脅かす。だから、自分に欺かれないように、たえざる自己点検の深淵が待ち受けているのだ。
フーコーの『性の歴史』全四巻は切れ味鋭い思想史家の太刀捌きによるところ大であるが、歴史学一般の問題設定としては、拙著『愛欲のローマ史』(講談社学術文庫)と佐藤彰一『禁欲のヨーロッパ』(中公新書)を読み比べていただければ幸いである。この巨匠の問題提起が、より身近なものとして理解されるだろう。
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