書評
『動物会議』(岩波書店)
太平洋戦争の敗戦の年に小学四年生。小学校が終わるまで疎開先で過ごすことになり、食べものだけでなく本にも飢える日が続いた。
東京へ戻ってからの手当たり次第の読書でエーリヒ・ケストナーに出会ったのは早くはない。背伸びをしていたので、子どもの本と思って眼を向けなかったのだろう。その後、たまたま図書館で手にとった『ふたりのロッテ』と『動物会議』(一九六二年・高橋健二訳)に引き込まれ、以来ケストナーとあれば何でも読むことになった。この二冊は、ナチスの迫害が終わって文筆活動が可能になり、食べものもろくにない中で子どものために最初に書いた本であると知り、生意気にも同志意識を抱きもした。
『動物会議』は、ライオンとゾウとキリンの一ぱい飲みながらの話から始まる。「あきれたやつらだ! 人間ときたら気持ちよくくらせるのに!」。何でもできるのに、それでやることときたら「戦争さ!」。腹を立てるライオンに、ゾウは「ぼくはただ人間どもの子どもたちが気のどくなんだよ」と耳をたれる。第二次大戦後四年しかたっていないのに戦争への動きがあり、会議をくり返すだけで結論を出さないのが人間なのだ。
そこで、八七回目の大統領会議と同日に世界中の動物が最初で最後の会議のために集合し、人間に会議は止めて子どもたちのための世界をつくる決議をせよと迫る。それでも動かない人間に業を煮やした動物は、すべての子どもを隠すのだ。
さすがに、動物の提案は受け入れられた。署名したのは国境は存在せず、戦争のない社会づくりをするという条約だが、ここでの具体が面白い。役所と役人と書類だんすを必要最小限度にする。弓と矢で武装した警察が科学と技術が平和に使われるよう監視する。いちばんよい待遇を受ける役人は教育者とする。教育の目的は悪いことをだらだら続ける心を許さないことだ。
今のお偉い大人たちに実行して欲しいことばかりだ。私が専門とする生命誌は人間が生きものであることを基本に置く社会づくりを考えているのだが、その原点ここにありだ。
とくに動物、つまりケストナーの「子どもたちが気のどくだ」という言葉は、そのまま私の中にある。今の社会をつくってきた当事者の一人として、気のどくだを超えて、「ごめんなさい。もう少しましな社会を渡すよう努めます」と詫びたい。
基本を考えたい時、読み返している。
【A5判:光吉夏弥 訳】
東京へ戻ってからの手当たり次第の読書でエーリヒ・ケストナーに出会ったのは早くはない。背伸びをしていたので、子どもの本と思って眼を向けなかったのだろう。その後、たまたま図書館で手にとった『ふたりのロッテ』と『動物会議』(一九六二年・高橋健二訳)に引き込まれ、以来ケストナーとあれば何でも読むことになった。この二冊は、ナチスの迫害が終わって文筆活動が可能になり、食べものもろくにない中で子どものために最初に書いた本であると知り、生意気にも同志意識を抱きもした。
『動物会議』は、ライオンとゾウとキリンの一ぱい飲みながらの話から始まる。「あきれたやつらだ! 人間ときたら気持ちよくくらせるのに!」。何でもできるのに、それでやることときたら「戦争さ!」。腹を立てるライオンに、ゾウは「ぼくはただ人間どもの子どもたちが気のどくなんだよ」と耳をたれる。第二次大戦後四年しかたっていないのに戦争への動きがあり、会議をくり返すだけで結論を出さないのが人間なのだ。
そこで、八七回目の大統領会議と同日に世界中の動物が最初で最後の会議のために集合し、人間に会議は止めて子どもたちのための世界をつくる決議をせよと迫る。それでも動かない人間に業を煮やした動物は、すべての子どもを隠すのだ。
さすがに、動物の提案は受け入れられた。署名したのは国境は存在せず、戦争のない社会づくりをするという条約だが、ここでの具体が面白い。役所と役人と書類だんすを必要最小限度にする。弓と矢で武装した警察が科学と技術が平和に使われるよう監視する。いちばんよい待遇を受ける役人は教育者とする。教育の目的は悪いことをだらだら続ける心を許さないことだ。
今のお偉い大人たちに実行して欲しいことばかりだ。私が専門とする生命誌は人間が生きものであることを基本に置く社会づくりを考えているのだが、その原点ここにありだ。
とくに動物、つまりケストナーの「子どもたちが気のどくだ」という言葉は、そのまま私の中にある。今の社会をつくってきた当事者の一人として、気のどくだを超えて、「ごめんなさい。もう少しましな社会を渡すよう努めます」と詫びたい。
基本を考えたい時、読み返している。
【A5判:光吉夏弥 訳】
ALL REVIEWSをフォローする








































