書評
『いろんな色のインクで』(マガジンハウス)
至芸の語り口、全読書人に贈る書評集
東海林さだおさんは「かけうどん」はラーメンに比べると、「さて」がないゆえ食べていて物狂おしくなると指摘した。ラーメンなら、さてこの辺でチャーシューを食べるか、ナルトをつつくかという気分転換があるが、かけうどんにはこの「さて」がないからだ。書評集を編むときに著者や編集者が陥りやすいのはこの「かけうどん」の愚を犯してしまうことだ。一つ一つの書評はおもしろく、読みごたえがあっても「さて」に当たる気分転換の読み物がないので通読はむずかしくなるのだ。
本書は、この意味でかけうどんではなくラーメンの方法論に依る書評集である。
イントロとして置かれたインタビューはさしずめラーメンのスープに当たる。次の「74の書評」はもちろん麺である。解説や書物エッセーを中心とした3章がチャーシューなら、趣向を変えて、都市景観や大洋ホエールズ/横浜ベイスターズを語る4章は煮卵か。推薦文を集めた5章がシナチクとすると名作を選んだ6章はノリかナルトとなる。かくして、読者はスープをすすり麺をかみしめた後、チャーシューや煮卵をつつき、シナチクやナルトを口にして、再び麺やスープに戻ることができる。しかも、どれもが絶品だから、読み終わったあと、ものすごく得した気分になる。
ことほどさように、本書はなによりもまず、その編集の妙が光る本である。大岡信の『捧げるうた 50篇』を論じた箇所で、著者は「君は詩を作るの上手なのに、詩集の作り方は下手だね」とからかったと語っているが、自らは本書によって自作の編集者としても一流であることを証明した。この編集技法を、私は麺好きなのでラーメンの比喩で表したが、文房具マニアの著者は「いろんな色のインクで」と表したのだ。さて、これで、本書の味わい方はわかった。では、肝心のスープと麺はどうか?
書評の方法論を開示したインタビューで、著者はイギリスの書評に学んだことことを公言し、本の選び方と語り口に芸がなければならないと説く。「本の選び方にだって藝はあるわけですね。あまり人が気がついていない本をパッと選んで、いかにいい本であるかを語る。それはしゃれた藝になるでしょう」「しかし書評家の藝の中の藝は、語り口ですね。ここが面白くならないとうまくいかないんです」
だが、なぜ語り口が大切なのか? 新聞や週刊誌では、政変や殺人や漫画などの「敵」が多いので、読者の目に止まるには語り口のうまさが必要だからだ。
とはいえ、語り口がうまいだけでは足りない。書評にはバックグラウンドとなる知識が不可欠であり、素人では無理なのである。たしかに「書評というのは、……ひとりの本好きの友だちに出す手紙みたいなもの」ではある。しかし、友だちなら好みも気質もわかるが、書評は文章だけで信頼感を作り出さなければならない。「その親しくて信頼できる関係、それをただ文章だけでつくる能力があるのが書評の専門家です。その書評家の文章を初めて読むのであっても、おや、この人はいい文章を書く、考え方がしっかりしている、しゃれたことをいう、こういう人のすすめる本なら一つ読んでみようか、という気にさせる、それがほんものの書評家なんですね」
この定義に当たる書評家が日本には一人しかいないのはいうまでもない。著者の書評は広大無辺の知識に支えられている上に、語り口が絶妙だから、一つ読んでみようかという気にならない読者はいないのである。とりわけ、書き出しは至芸というほかない。「入門書は偉い学者の書いた薄い本に限る」(エーリッヒ・フロム『愛と性の母権制』)。「スパイとスパイ小説はイギリスの主要な産業である。そして二つの業界にとつてしあはせなことに、紛争は盡きることがない」(ジャック・ヒギンズ『密約の地』)。「近代日本文学論の常識に、いちいち逆らつたやうな本である。そしてわたしの眼から見ると、それがいちいち正しい」(中村真一郎『再読 日本近代文学』)
このように、スープと麺だけでもこちらの食欲は十分に満たされるのだが、チャーシューや煮卵を食べたがゆえに、麺やスープの味わいが一段と深くなることもある。これが本書のもう一つの醍醐味である。たとえば、「ときどき樹を見ながら」の章に収められた小文で、著者は少年時代に、なぜ日本は中国との戦争を解決しないうちに英米との戦争まで始めてしまったのかという謎と、もう一つ、西洋の小説が趣向があって知的でおもしろいのに日本の小説は鈍重で無知を誇り、退屈なのはなぜかという謎を抱え込んだと語っているが、これこそが著者の知的探求の原点である。著者の書評が、知的で明るく、読者への恫喝が皆無なのは、出発点にこの疑問があったからにほかならない。
知的で楽しい読書を愛するすべての人に贈る一冊。
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