書評
『思い込みの経済学-AI時代のお金・仕事・社会』(中央公論新社)
「合理性」 希望にもとづく勘違い
私たちは「思い込み」を前提に暮らしている。明日も太陽は東から出る、お盆にはご先祖様が帰ってくる等だが、その程度なら論拠をたださなくとも大した問題はない。だが思い込みから新型コロナに罹患(りかん)させられたらどうだろう。2020年、世界保健機関(WHO)が感染経路を飛沫(ひまつ)感染と接触感染だとした。日本では感染者が出入りした場所へ保健所が消毒に走り、対策としては屋外でもマスクが励行され、飲食店にはアクリル板が設置された。対策は3年ほど持続されたが、本書が触れるように、実は21年にWHOは呼気によるエアロゾル感染を加えている。それならば換気が最重要であり、地下室のアクリル板は空気を滞留させるだけに逆効果である。案の定、保健所が対処を指導したはずの地下稽古(けいこ)場で選手の集団感染が頻発した。思い込みは早期に払拭(ふっしょく)される必要があったが、いったん始まった対策は転換されなかった。
人々の「思い込み」はいかにして生まれるのか。22年度、金融教育の「資産形成」が高校で必修化されているが、株式情報に慣れた生徒は、市況に応じ敏感に株式を組み替えれば高いリターンが得られると考えて不思議はない。勉強と実技に熱心な生徒の成績が優秀であるのが、学業では通常だからだ。
それに対し本書は、ファイナンス理論や実証研究における論文を多数引用、社会が想定しない説明を展開している。企業価値の比率に応じて分散投資するインデックスファンドと安全資産で資産を構成し、放置すると、負うのは市場全体の変動リスクだけになって長期的には有利になる。個別株を保有する場合は企業固有のリスクが加わり、取引回数だけ証券会社に手数料を取られる。
理論と実証研究の理解が足りないと思い込みが生まれる。なぜそれは解消されづらいのか。主流派経済学は合理的な人間を前提し理論を組み立てているが、現実の人間心理には偏向がある。著者が日本で先導してきた行動経済学は、因果分析を武器にそうした偏りを次々に暴いてきた。「直近バイアス」は直近のトレンドが続くと思い込む希望的観測である。「自己帰属バイアス」は偶然を自分の実力と考える思い込みだ。経済学が想定する人間心理の合理性は、希望にもとづく勘違いだったのだ。新型コロナのエアロゾル感染では、失策を認められない官僚の防衛本能も働いたかもしれない。
本書は他にも社会に不安を呼ぶテーマを多数論じる。「AIはどんな仕事なら代替し(奪い)、どんな仕事ならば補完するか」。「働いて、働いて、働く長時間労働で生産性は伸びるのか」。それぞれに理論や実証にもとづく考察が施されるが、興味深いのが「梅毒への予防とまん延防止に検査行動を起こさせるには」に対し著者らが講じた呼びかけだ。罹患を自覚しない潜在層はなかなか検査に行かないが、「梅毒を放置すると、あなたがきっかけで大切な人も感染してしまいます」と、パートナーへの感染リスクを損失と訴える利他的メッセージには好反応が見られたという。
人間が偏向と思い込みから完全には自由になれないと前提し、本来望む方向へ行動をそっと促す。知略に満ちた一冊である。
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