投資理論の発展から見える希望
コロナ禍が不気味に居座る世界で、奇妙な現象が起きている。アメリカで株価が高騰、一部の株式指数が史上最高値を更新しているのだ。経済の停滞から金融危機が懸念されていたのが嘘のよう。ひょっとしてこの暗鬱な世界に、金融市場から光が射すのだろうか。大学教員でありながら資産運用会社を創業した著者A・ローは本書で1970年代以降に切り開かれたファイナンス理論を総ざらえする。その中心には「効率的市場仮説」があり、2008年に勃発したリーマン・ショックで信憑性が決定的に揺らいだ。ローはそんな既存理論を平時にのみ通用すると批判しながらも、批判だけを投げ出さない。平時と危機の双方を説明するのが、独自の「適応的市場仮説」である。
効率的市場仮説は、金融市場において資産価格は入手可能な情報をすべて織り込んでいるとする。現在の市場価格には「群衆の叡智」が反映されているのだから、ロウソク足を描いて過去のデータを分析しても意味がなく、特定のトレーダーが独自の情報や分析を持ち込んだところで勝てはしない、という。効率的市場仮説の台頭で、金融市場は一変した。カリスマ投資家のような「人」にではなく長期にわたり分散投資する方が有効で、安心して預けっぱなしにすればよい。かくしてインデックスファンドが一大産業に成長した。
驚くべき逸話が紹介されている。86年にケネディ宇宙センターから打ち上げられたスペースシャトル・チャレンジャー号が73秒後に爆発した事件の顚末だ。当時のレーガン大統領が立ち上げた専門家委員会は、膨大なデータやインタビュー、残骸の精査に5カ月の時間をかけ、補助ロケットの「Oリング」破損が原因と結論づけた。打ち上げに関わった大手業者は4社あり、補助ロケットの建造と操縦を担ったのはそのうちのM社だった。
信じがたいのがM社の株価の動きである。チャレンジャー号爆発直後から値下がりを始め、13分後には取引が停止された。他の3社も株価を下げたが、統計の想定内だった。それだけではない。その日に起きたM社の時価総額の減額の中心部分は、損害賠償や示談に将来収益の減少を合わせた額とほぼ見合っていた。専門家委員会がたどり着くのに5カ月を要した結論を、株式市場は数時間以内に導き出したのだ。
何故そんなことが起きるのか。将来、特定の出来事が起きれば1ドル得られ、起きなければ得られない証券を取引する「予測市場」を考えよう。大統領選の結果であれインフルエンザの流行であれ、原発のメルトダウンであれ、群衆はそれぞれが入手しえた情報にもとづいて証券を買い、的中すれば儲けられる。ここで言う「情報」は特定資産の需要曲線と供給曲線を推定するのに役立つもの。交点である「均衡価格」の予測に成功すれば得をするのだから、合理的な人間ならばよりよい情報を携えて市場に集まってくる。その結果、現実の均衡価格にはすべての情報が織り込まれるというのだ。
効率的市場仮説にもとづく「金融工学」は、基礎的な変数だけから未来の均衡価格を計算してみせる。経済学は、物理学と同様に予測と検証が可能な「科学」の地位を戴冠したかのようだった。特殊な微積分を用い均衡価格を計算する方法を開発したM・ショールズがノーベル賞を受賞したのは、97年だった。
ここで大スキャンダルが勃発する。翌98年、ショールズが参加したファンドが巨額の損失を出したのだ。リーマン・ショックが第二波となり、金融危機はいつ起きても不思議はないとみなされるようになる。そうした「危機」を人間の非合理性の一貫したパターンから説明したのが、D・カーネマンらの「行動経済学」だった。「大衆の狂気」が存在しうることを、実験心理学によって立証したのだ。
行動経済学は、人間は一部の情報だけを元に深く考えもせず秩序を推定する(ヒューリスティックス)と考える。一方「適応的市場仮説」は、それを経験に学ぶ試行錯誤のプロセスとみなして、「進化」の理論を大胆に導入する。ローの言う進化には、トレーダーがパニックに陥る「生物としての恐れ・痛み・喜び」から、カリスマトレーダーが提唱する投資理論のような「知的な思考」までが含まれる。様々なファンドが革新を引き起こし、全体として金融市場を進化させる様相を、神経科学や社会生物学、進化生物学を援用しつつ解き明かす。
分厚い本だが、終盤に希望が待ち受ける。金融市場の後押しで、癌撲滅の扉が開くというのだ。ここへ来て完治させる医薬品の開発が視野に入ってきたものの、個別の治療薬開発に投資すれば金融リスクが高い。それに対し著者は、150の開発プロジェクトをとりまとめ、全体に投資する「分散投資」を提唱する。ひとつ開発に成功すれば元がとれる仕組みである。この図式はコロナのワクチン開発にも応用できるはず。経済学と「希望」をつなぐ書だ。