コラム

吉本隆明はメディアである

  • 2017/07/05

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吉本がこの二十年、多くの読者に読みつがれてきたのは、どういう理由によるのであろうか?

六〇年安保からしばらくのあいだ、日本共産党や、共産同、革共同などの政治的諸党派(革命の日本的正統性)に召喚されないことの証明(弁解)として、それは読まれた。これはむろん、吉本の意図と関係ないことである。彼は先頭をきって、思想の新たな可能性をひらこうと、風圧を一身にうけただけである。多くの者は彼の後ろに従うことで、風圧をしのいだ。吉本は追随者を甘やかすことなく、「自立」という厳しい薬を与えたが、人びとはまたしても、このことばをただ口先で唱えて免罪符にする始末であった。

これに対し、最近十年は、別の読まれ方が前面に出ているように思う。知識人の構想力の停滞を埋め合わせ、サラリーマンの漠然とした不安を解消するものとして。かつての党派が有効であると、もう信じるものはいなくなった。資本主義は変化の度を速め、つぎつぎに新しい貌をみせていく。ここでなお、「左翼的」でありうること、時代と独立な歴史=時間感覚を持ちうることが、証明されるだろうか? 先進社会について吉本は言う、《ただ左翼や進歩などというものは、泡沫としてしか存在しない。左翼とは何かを探しつつあるものだけが左翼なのだ》(「ハイ・イメージ論 ― 映像都市論(2)」『海燕』八六年二月)。こう聞くとき、自分はもうどの左翼にも属さない(属することができない)、そのくせ、生活保守主義と言われてまで現状を肯定する根拠を持つわけでもない、と感じる誰もが慰撫される。



「左翼とは何かを探しつつあるものだけが左翼」だーとはもっともだ。私が不思議なのは、左翼とは何かを探すことまでして、なぜ左翼でなければならない(と吉本が信じている)のか、である。

一度でも左翼であった人間が、倫理的なあまり、左翼でありつづけようという話なら、ありきたりでよくわかる。しかし吉本の場合、思想の解体の度合が、もう、左翼とよぶ必要もないほど、徹底してきている。

とくに最近、彼が自然の観念を放棄したことは、重要だと思う。《マルクスが言う自然主義的人間主義というのとぼくが違うということは、マルクスがそこに時代的限界があるとぼくが考えていることは、自然的自然よりももっと自然である自然というものを、人間は人工的に作れると考えているんですよ》(「都市の変容・詩の現在」『現代詩手帖』八六年五月)ここで彼は、人為的な社会制度である資本制が、その外部である自然に対する操作性を高めて、つぎつぎ内部にとりこみ、システムとして完結するであろう、という予想をのべている。エコロジー運動の可能性に引導を渡すいっぽう、シミュレーションの概念によって資本制を批判的に把握する試みにも水をさし、資本制はますます現実味をましていくであろう、としている。

実をいえば私も、吉本が描こうとする資本制の未来像に、ほぼ一致する認識をもっている。資本制の究極を、私は「機械主義」と名付けた。現在、資本制以外の社会システムは事実上存在せず、資本制を上回るどんなプランも提案されていない。資本制はその完成(機械主義)へひた走る以外にない。資本制がちっとも悪くないと考えるのなら、どこに(政治的)左翼を名乗る必要があろうか?



むろん、われわれの社会は、完全でない。まずいところだらけだと言ってよい。ただ、これは、言うなれば、資本制を支えるインフラ・ストラクチュア(歴史的・文化的基盤)の不備の問題である。見つけ次第に、それを取り除いていけばよいのだ(吉本はこれを、不断革命という。しかし左翼がありえないのに、これをトロツキーの永続革命になぞらえることはないのだ)。

〈日本〉資本制の特徴はといえば、土着の堆積を巧みに温存しながら、生産システムを効率的に作動させてきたところにある。これをもし「アジア的」と称するなら、最近の傾向は、この資本制が「アジア的」な特性と共棲し、それをシステムのなかで再現するという戦略をもつようになったことである。吉本はこの点をとらえ、世界都市=東京のもっとも先端的な様相として、アジア的なものと超モダンなものとの同時共在による異化効果をあげるわけだ。

さて、多くの人びとは、日々こうした変化を実感しながらも、それを、自分を育んできた過去(たとえば、左翼運動の体験、資本制の古典的把握)との関係で捉え、うまくことばにすることができない。吉本は、それを代行する。人びとは、時代をじかに見すえるよりは、吉本の言動にふれ、彼を通して「そうか、時代はもうここまでわれわれを許容しているのだ。自分の過去はこのように連続的に変化してきたのだ」と考えるほうを好むのである。

資本制がやがて、自然的自然よりも自然な自然を、人工的に作るに違いない、という。ならば、アジア的共和社会よりも共和的な社会をかたどることぐらい、朝飯前のはずだ。吉本は、資本制のまばゆい先端(の像)のなかに、彼の批評的根拠(「アジア的」なもの)が奪われてしまうのを見る。彼の思想は、もう新しさの源泉でない(かもしれない)。新しさは、外部にしかない(かもしれない)。その真偽を確認することに、いま吉本は吸いよせられているようにみえる。彼の根拠とともに、「解体の思想家」吉本隆明が解体を演ずる。人びとはそれをみて、時代を感得する。このいみで、吉本こそ、時代の最大のメディアなのである。そう言うべきだろう。

【文献】橋爪大三郎、一九七七「《遠隔対称性》をめぐって」(未発表)/一九八六「来るべき機械主義」『現代思想の饗宴』︰一八八―一九三/“Mr.Takaaki Yoshimoto As Media”by Daisaburo Hashizume 1986

*本稿は、橋爪大三郎『永遠の吉本隆明』(洋泉社新書y、二〇〇三年)に再録された。
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初出メディア

現代詩手帖

現代詩手帖 1986年12月

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