コラム

吉本隆明はメディアである

  • 2017/07/05

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共産主義は、共同体の記憶(楽園追放)を、歴史意識の羅針盤としている。吉本は、この共同体の位置に、アジア的な共和社会(の像)をおくのだ。そこではたとえば権力が、存在理由を喪って、作用しない。また共同幻想が極小化され、対幻想の延長上にあるかのように描かれる。ひたすら生活だけが営まれ、民衆・大衆のあるがままに位置する場所。日本をはじめとするアジアの一帯に、微細な胞子のごとく一面に分布している。それはいわば、歴史の原点であり、同時に、歴史が回帰すべき永遠の終着点なのだ。

私はまえから、吉本の所説について疑問に思っていたことがある。それを、この「アジア的」という概念との関連から、つぎのように整理してみた。

(1)権力がなぜ、悪いのだろう? どうして権力は、最後に消滅しなければいけないのか?

(2)これと関連するが、いわゆる「逆立テーゼ」への疑問。共同幻想が自己幻想や対幻想に対して逆立する、とどうして言えるのか? そもそも共同幻想という概念は、どういう方法的根拠をもっているのか?

(3)なぜ、「アジア的」であって、「土着的」、「日本的」と言ったのではだめなのか? 一方で、西欧的土着性を視野の外においやり、もう一方で、アジアを日本の延長線上にひきよせてしまう、そんな区画になっていないか?

吉本が知の批評的根拠として、アジア的な原イメージをあらためて手にしたのは、敗戦の体験(とくにそれを契機に転向の問題を深く追究したこと)を通じてだと思われる。愛国少年には、アジア的な共和社会(の像)がそのまま、もっとも近代的な国家の態勢に直通する(できる)、と信じられる一瞬がある(あったはずだ!)。その虚妄がもろくも崩れ去ったとき、すべての知や権力の形態を、けっしてくずおれることのない原点によって照合しなければならない、という当為が受け取られる。この世代的な共通体験を、吉本は誰よりも深く掘り下げていった。



吉本の批評的営みは、知の疑態を効果的に暴きだす。私らがやむなくあてもなく大学であばれまわっていた当時、彼の存在そのものが、数少ない励ましであった。ただ私は、「大衆の原像」という、彼の批評的根拠が、呑みこめなかった。理解できないのは自分が悪い、と思っていたが、そのうちずうずうしくなって、吉本の議論のほうに(も)おかしいところがあるのではないか、と考えるようになった。

で、まず、第一の疑問ー権力の是非ーから、考えていくとしよう。

権力がないほうがいい(なくせる)かどうか。答は、権力をどう定義するかにかかっている。

吉本がとくに定義を掲げているわけではないので、この点はよくわからない。ただ彼が、およそ権力と名のつくものを肯定したことがないのは、たしかである。私に印象ぶかいのは、政治権力の担当が、町内のゴミ掃除の当番のようなものになってしまうことを、吉本が理想として描いたことだった。権力を正当化しようとする契機が極小である。これは特に〈日本〉的な知の有り様ではないか、と疑いたくなる。

マルクス主義の公式見解によれば、共産主義段階にいたって国家は死滅する。権力と支配の制度は最終的に解体するわけだ。けれどもこの主張は、西欧の伝統からいささか異端的なのだ。キリスト教は、主なる神の絶対の僕たるべきことを説く。その理想は、神の権力の完全な実現にある。人びとの身体はおのおの、侵すべからざる神の神殿である。政治的自由主義は、もともとこのことを根拠に、世俗の権力に闘いを挑んだ。いずれにせよ、自己権力は肯定される。

これに対して、日本の知識人は、権力の正当化に失敗してきた。江戸幕府の正統性根拠は薄弱である。もともと非合法な武装勢力でしかない武士は、自分の支配を正当化することができない。儒教論理を厳格に適用しようにも、それはかえって崎門学↓尊皇思想のような系譜をうむ。そして、近代天皇制。これは、自己権力の解除をいよいよ全域化した。〈日本〉で作用する権力工学は、西欧的なものとたしかに異質である。アジア的とよぶべきかどうかは別としても。



私は想像してみる。もしも私が、自分にかけがえのない人びとをひとり残らず、ここで口にするにもしのびないようなむごたらしいやり方で、惨殺されてしまったなら、私はどうするだろう。そして吉本も同じめにあったなら、彼の思想の名において、どうふるまうだろう。

法が有効に機能して、犯人が相応しい刑に服するなら、私はなにも言うまい。また、法ないし制度が不備で、犯人がたまたまその網をのがれたとしても、おそらく私はなにも言うまい。だがもし、なんの法もなく、制度的な制裁措置もとられず、犯人がのうのうとあたりをうろついているのなら、私はだまっていない。武器を手に復讐におもむくだろう。その結果、犯人が死ぬのでも私が死ぬのでもどうでもよい。とにかくこのままではおかぬという積極性が、私には生きることと不可分に思える。無常を悟って我執を離れようとする者。それもいてよい。ただそれは、万人に要求するにはあまりに酷な境地である。

この生存の自己肯定を、自己権力とよぼう。こうした素朴な権力に立脚しない社会はあるまい。法規範は、自己権力の均衡(と変形)のうえに張られるのである。吉本の思想は、この自己権力を是認するのか、それとも否認するのか?

警察にも、治安警察と公安警察があって……という議論も成立つ。これは、「よい権力」(必要な権力)/「悪い権力」を分ける発想にほかならない。この発想に立てば、必要にして十分な、つまり「正しい」権力の樹立を、課題としなければおかしい。

(近代)民主制とは元来、ごくごくふつうの民衆が、必要にして十分な正しい権力を、自己権力の延長上に樹立できるよう工夫された制度であり、思想であった。しかし、わが国の伝統には、自分が権力をもつことを肯定する思想が育たなかったため、権力の行使にともなう責任や倫理の観念が欠けている。権力は、個々人の利害や社会的威信と分離していない。権力は汚らわしいもの、悪である。誰も自分がそれをもっていることを信じようともしないし、他人がそれを持っていようものなら、羨望と侮蔑のいり交じった目で眺める。

私が大統領レーガンをばかにする気がしないのは、彼がアメリカの統治権力のルールを意識的に体現し、それに忠実だからである。SDI計画は、その責任にもっとも端的に応えようとするものだと思われる。

いっぽう吉本(とその読者)には、権力を肯定する発想がない。文学者なら、それでも通るかしれない。けれども、社会を理論的に考察しようとする思想家としては、ないがしろにできないことである。むしろ吉本こそ、「アジア的」な思想家の名でよぶにふさわしいのではあるまいか。

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第二の疑問。共同幻想の逆立というが、証拠がないではないか。

共同幻想なるものをつかみだして、観察できれば、逆立テーゼの検証(反証)が可能だろう。しかし、共同幻想の概念は、社会学者デュルケームの集合表象の概念もそうであるが、実体視してしまうと方法論的に問題である。

ではそれを、一種の仮説構成体とみなし、そのうえで公理のように逆立テーゼを要請した、と考えればどうか? それだと、逆立テーゼは、権力は消滅すべきだ、というさきの命題と、大体同じ内容の主張になってしまう。つまり、それ以上の根拠がない。心身相関や憑依現象は、とくに逆立テーゼによるのでなくても、いくらでも説明の方法があろう。また、対幻想と共同幻想の離反の証拠を、近親相姦の禁忌にみるような主張が『共同幻想論』にあるが、この論理は奇妙である。インセスト・タブーは、吉本のいうように社会過程のなかで二次的に導出される(たとえば、氏族的な共同性が家族を抑圧する、という具合に)のではなく、もっと深く、社会の基盤に遡る深度を持つ現象とみるべきだ。この点については以前、詳しく検討したことがある(橋爪〔一九七七〕)。

改訂新版 共同幻想論  / 吉本 隆明
改訂新版 共同幻想論
  • 著者:吉本 隆明
  • 出版社:KADOKAWA/角川学芸出版
  • 装丁:文庫(332ページ)
  • 発売日:1982-01-16
  • ISBN-10:4041501016
  • ISBN-13:978-4041501016

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第三に、「アジア的」というが、なんのことか? このことばの意味あいは、調べれば調べるほど判らなくなる。

二十世紀中葉以降とくに、社会人類学の知見が飛躍的に豊かになった。まず、系譜集団・婚姻交換など、諸々の分析概念の普遍性と有効性が示された。また、その上にたって、民族的・地域的な社会生活の種差と異質性について、精密・微細な知識も積み重ねられた。この段階になると、アジア的という概括的な規定の出る幕など、実はもうない。〈構造〉主義から出発した私には、こうした知見との接続に耐えないような議論は、空振りとみえてしまう。

吉本の用法に注意してみると、たいがいの(つまり、明瞭にロシアやインドを指すのでない)場合、「アジア的」でなく「〈日本〉的」と言った方が、話が通じる。それなら解るのに、と私は思う。彼はどこに目を向けているのか? 私とそう異なるとは思えない。日本資本制の異様でハイブリッドな実態を、きちんと切りわけること。これは、掛値なしに第一級の仕事だ。土着の堆積とその飛沫が、このシステムの部品装置のどこをどう支えているのか。私がそれを探索しようとして動きまわると、彼の捜査の足どりとあちこちで交叉するのがわかる。ただ彼は、この同じ土着の手触りを、なぜか「アジア的」と呼ぶのだ。

吉本がこの「アジア的」ということばに、どんな意味の拡がりをこめようとしているのか、もう少し追ってみよう。



「アジア的」なものへの吉本のこだわりは、なんとか自分を古典的左翼の磁力圏(レーニン以降のロシア・マルクス主義)から解き放ちたい、という動機と通じているようだ。

「アジア的」とは、マルクスに義理立てした言い方に違いない。ヘーゲルがそれに先立ってこのことばに与えた含意や、マルクスの「アジア的生産様式」論の効力が剝げ落ちてしまったことをふまえながらも、なお吉本は「アジア的」ということばに重大な意味あいをこめようとする。〈

『試行』の連載論文「アジア的ということ」などから、彼のいうところを押さえてみよう。

マルクスとレーニンのあいだに、彼は深い線をひく。これはいわば、西欧とアジアを分かつものなのだ。そもそも《マルクスの「プロレタリ独裁」の概念は、コンミューン型国家、死滅へと開かれた国家の形成と不可分な理念》(『試行』八〇年十一月)のはずであった。しかも、《農業のアジア的共同体の残存は……資本主義が……到達すべき画像の範型》となるだろう、とまでマルクスは考えた(同八一年十月)。ところがレーニンは、それを(意識的に)曲解し、《〈生産手段の国有化〉と〈生産手段の社会化〉とをただちに等式記号で結》ぶという錯誤を犯す。彼とその党派は、《線型の〈進歩〉史観》によって、アジア的=ミール共同体的ロシア社会を、単に遅れたものと捉え、そのうえに彼らが実権を握る民族国家をうち建てた。これらのことから《ロシア・マルクス主義の〈アジア的〉な停滞の様相》が宿命づけられる(同八〇年十一月)。

吉本の描くこの見取りを、逐一論破するだけの用意がいまあるわけではない。だが私は、素朴な疑問を感じてしまう。マルクスとレーニンは確かに違うが、それ以上に大きな共通の基盤に立っているのではないか。マルクスの理念を現実に移すのに、レーニン以外のやり方があることを示すのでない限り、片方のマルクスだけをすくい出すのは、いかにも無理ではないか? もうひとつ。ロシアの特殊性を「アジア的」と、マルクスは考えたかもしれない。けれどもウェーバーなら、そこに東ローマ(ないしギリシャ正教)の遺産をまっさきにみとめるだろう。言うまでもなくそれは、西欧的な聖俗分離の原則によらない、聖俗一致の体制である。この指摘のほうが、一次近似としてはるかに的確ではないか?



さて、アジア的な農村共同体を底辺に配する民族国家。このロシア社会の基本性格は、そのまま日本にもひき移してくることができる、と吉本はみる。「アジア的」農耕共同体とはだいたい、“血縁の人びとが集まって集落を構成し、共有の耕地と、個々の家族の私有耕地とを擁する”ようなものをいうらしい。そうした共同体相互の結びつきは、希薄である。こうしたところに支配共同体の権力がうちたてられると、「アジア的」専制という統治形態が出現する。その統治は、貢納制や灌漑を柱とする。支配共同体が交替しても、底辺の農耕共同体に格別の変化はない。《アジア地域では、アジア的農耕共同体の段階のまま数千年過ぎてきた》(『試行』八二年三月)ーこう考えるのである。

吉本が知っているのは、日本社会である。「アジア的」という場合、彼のイメージがそこからとられているのはたしかだ。私も日本人だからすぐわかる。しかるに彼は、日本とそっくり同じ型の共同体が、中国にも、インドにも、ずうっと拡がっていると考える。このことを彼は確信するようだが、その証拠がどこにあるというのか。

私はここに一瞬、江戸庶民的、あるいは大東亜共栄圏的な想像力を感じてしまって、背筋に寒いものの走るのを覚える。異民族・異文化は、ことごとく異質である。ー最初はそう想定しておくほうが、とにかく健全であること。これは、現代人類学が与えてくれた貴重な教訓だった。なぜ彼は、あえてその逆を行うのだろう。

吉本は、韓国に行くのが少々怖いという。《かつて(=戦争中に)韓国と日本の差異、違いというのを、おれはぜんぜん知らなかったという体験がある》から(『不断革命の時代』五一頁)。ではその後、その知識の欠落を埋めたかといえば、《具体的な、微細なイメージになってくると、僕はあまり追究していないんです》(同一〇四頁)。こういうことでは即座に、「アジア的」もなにもないものだ、で片付けられてしまっても文句は言えない。

不断革命の時代―吉本隆明対談集  / 吉本 隆明,川村 湊,笠井 潔,竹田 青嗣
不断革命の時代―吉本隆明対談集
  • 著者:吉本 隆明,川村 湊,笠井 潔,竹田 青嗣
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:単行本(219ページ)
  • ISBN-10:4309710530
  • ISBN-13:978-4309710532
内容紹介:
サブ・カルチャーと文学(笠井潔、川村湊)
ハイパー資本主義と日本の中のアジア(川村湊)
変容する世界像と不断革命(竹田青嗣)

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(次ページに続く)
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現代詩手帖 1986年12月

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