読書日記

魚住昭『出版と権力 講談社と野間家の一一〇年』(講談社)、斎藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社)

  • 2021/04/15

出版史の謎を解いた大傑作

×月×日

NHK大河ドラマ『青天を衝け』が放映開始したおかげで、私が書いた伝記『渋沢栄一』も重版になったが、伝記というのは概して一つの大きな矛盾を抱えている。遺族から資料の提供を仰げば、不都合な真実を書くわけにはいかなくなるが、しかし、遺族の制約を免れようとすれば公開資料に拠るほかはない。この矛盾は容易には解決されないが、しかし、例外もある。魚住昭『出版と権力 講談社と野間家の一一〇年』(講談社 三五〇〇円+税)はこの特権的なケースである。

著者が講談社と野間家について書こうと思い立ったとき、社史『講談社の歩んだ五十年』(一九五九年刊)には元になった速記録があることが知られていたが、保管場所は不明のままだった。だが、編集者からついに「発見!」というメールが著者のもとに届く。「目の前に積まれた段ボール箱を見たとき胸が高鳴った。そのなかには濃紺やあずき色のハードカバーにがっちり保護された、ぶ厚い合本が約百五十巻あった」。

この膨大な原資料は社史編纂の実務担当だった笛木悌治が三百回以上の座談会と二百人に及ぶ関係者聞き取りをまとめた速記録の合本で、笛木は当時の社長の野間省一の承諾の上、解明を未来の探求者に委ねたのであった。

ふたりには、良いことも悪いことも事実は事実として残すことで、日本を代表する総合出版社としての歴史的・社会的な責任を果たさなければならないという意識があったと思う。

この精神は現在の七代目社長や編集担当役員にも受け継がれ、著者が秘蔵資料にアクセスして、不都合な真実が見つかったとしても真実を優先するという合意がなされた。

では、この貴重なドキュメントからいったいどのような事実が解明されたのか? 単に野間家と講談社に関する謎が解けたというに止まらない。日本出版流通史におけるパラダイム・チェンジの謎もまた解明されたのだ。

中学教員から身を起こして雑誌王となった大日本雄弁会講談社の創業者・野間清治は一九二三年の関東大震災の直後、乾坤一擲の大バクチに出る。グラフ本『大正大震災大火災』を二十万部刷るために当時最大の取次だった東京堂の専務・大野孫平と交渉を開始したのだ。この過程で日本出版流通システムのパラダイム・チェンジが起ったのである。

しかし、大転換のプロセスを理解するには、野間が『雄弁』と『講談楽部』で成功しながら高利の借金に苦しんでいた一九一四年に溯らなければならない。野間は東京堂の大野孫平から提案された単行本の歩合(卸値)引き下げを呑むかわりに、高利の借金五千円の借り換えを東京堂に要請し、大野がこれに応じたという背景がある。野間が『大正大震災大火災』で大バクチに出たときに役立ったのが大野とのこの太いパイプだったのだ。

では『大正大震災大火災』二十万部の刊行がなにゆえにそれほどの巨大な方向転換となったのか? それはこの頃まで書籍と雑誌の流通経路は完全に別系統で、雑誌小売店と書籍小売店の割合が10対3だったことと関係している。

つまり書籍販売網より、雑誌販売網のほうがはるかに広く、きめ細かかった。講談社の狙いは『大正大震災大火災』という書籍を雑誌取次の流通ルートに乗せ、大量販売することである。

結果から言うと、野間と講談社はこの賭けに勝ったのだが、それは書店への注文取りも、送付手配も、雑誌並み簡易荷造りへの鉄道省への働きかけもすべて講談社側が引き受けたこともあるが、それ以上に、雑誌取次最大手東京堂の大野の決断に因るところが大きい。

「古い慣例」を破ることを最終的に認めたのは、(中略)東京堂専務で〝取次界のドン〟だった大野孫平である。清治と大野の信頼関係がなかったら、『大正大震災大火災』を雑誌ルートに乗せて売るという野心的な試みは実現しなかったろう。

こうして実現された雑誌小売店のルートに書籍を乗せるという日本型出版流通システムは昭和の初めに山本実彦の改造社が企てた定価一円の『現代日本文学全集』すなわち円本の誕生にも貢献する。この時にも東京堂の大野は山本が申し出た掛金の一万円を融資したのである。山本はこの資金をもとに電通を介して大宣伝を打ち、「特権階級の芸術を全民衆に解放」するという「出版界大革命」に成功した。

ことほどさように、出版史におけるパラダイム・チェンジの流通革命が講談社秘匿資料の大野孫平談話の分析によって明かされたことの意味はまことに大きいが、では私が冒頭で示唆した遺族の不都合な真実への踏み込みはどうかといえば、それは主に二つのポイントに絞られる。一つは野間清治のあとを追うように亡くなった講談社二代目・野間恒とその従弟で「のちに『昭和の武蔵』の異名で剣道界のレジェンドとなり、講談社の歴史の隠れたキーパーソンともなる森寅雄」との相克。もう一つは講談社が「戦犯出版社」という汚名をかぶせられる原因となった報道出版統制の親玉・鈴木庫三陸軍中佐との関係である。このうち前者については本書を読んでいただくとして、後者には一言触れておかざるを得ない。というのも、本書では鈴木中佐が配下の「大東研究所」の所員たちの失職危機に際してこれを講談社編集部に顧問としてねじ込もうとしたのに対し、講談社の幹部がこの暴挙を「金だけ出して口は出させない」という妥協策でなんとか切り抜け、ついには海軍を介入させることで鈴木パージに成功した経緯などの特大秘話が語られているからである。

日本出版史の大きな謎をいくつも解明した大傑作と言っていい。

出版と権力 講談社と野間家の一一〇年 / 魚住 昭
出版と権力 講談社と野間家の一一〇年
  • 著者:魚住 昭
  • 出版社:講談社
  • 装丁:単行本(674ページ)
  • 発売日:2021-02-17
  • ISBN-10:4065129389
  • ISBN-13:978-4065129388
内容紹介:
明治末に創業し、戦中、戦後、そして今日まで出版業界の光と影の双方に深くかかわってきた、講談社と野間家の人びとが織りなす物語。

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私は「道徳的であることが最も経済的である」と要約できる渋沢栄一的合本主義は修正資本主義の限界に位置し、渋沢を超えるとなったら、別のシステムを採用せざるをえないと思っている。果たしてその「別なもの」は存在しうるのだろうか?

この大問題に対してマルクスをエコロジストとして読み込むことで答えを出そうとしたのが、現在ベストセラーとなっている斎藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社新書 一〇二〇円+税)である。タイトルの人新世とはノーベル化学賞受賞者パウル・クルッツェンの造語で人類の経済活動が気候変動を招いて破滅を導こうとしている時代を指す。

この提起を受けて現在、国連や先進国が推進しようとしているのが「SDGs(持続可能な開発目標)」であるが、著者はこれを現代版の大衆のアヘンとして退ける。なぜなら、SDGsであろうと自己増殖と外部性を運命づけられた資本主義に拠る以上、先進国で数値が改善されても「外部」である途上国がそのマイナス分の捨て場になっているため地球全体の環境負荷は増加してしまうからだ。「人類の経済活動が全地球を覆ってしまった『人新世』とは、そのような収奪と転嫁を行うための外部が消尽した時代だといってもいい」。

では、どうすればいいのか? 答えは最晩年のマルクスの中にあるというのが著者の考えである。なぜならそこには資本主義でもマルクス主義でもない「コモン(社会的共通資本)」を市民で民主的・水平的に共同管理する第三の道たるエコ的脱成長コミュニズムが示唆されているからだ。「マルクスは、人々が生産手段だけでなく地球をも〈コモン〉(common)として管理する社会を、コミュニズム(communism)として、構想していたのである」。

新しいマルエン全集プロジェクトMEGA参加の著者が提案している脱成長コミュニズムの内容は本書に譲るとして、ここでは、とりあえず、人類サバイバルのための提案を行う勇気のある新しい才能の登場を言祝ぎたい。

人新世の「資本論」 / 斎藤 幸平
人新世の「資本論」
  • 著者:斎藤 幸平
  • 出版社:集英社
  • 装丁:新書(384ページ)
  • 発売日:2020-09-17
  • ISBN-10:4087211355
  • ISBN-13:978-4087211351
内容紹介:
環境危機の犯人・資本主義にどう終止符を打つのか。人類を救う潤沢な脱成長経済とは何か。「人新世」=気候変動時代の処方箋!

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【アーカイブ視聴】2021年4月23日(金)20:00~21:30 斎藤 幸平 × 鹿島 茂、斎藤 幸平『人新世の「資本論」』(集英社)を読む

書評アーカイブサイト・ALL REVIEWSのファンクラブ「ALL REVIEWS 友の会」の特典対談番組「月刊ALL REVIEWS」、第28回はゲストには経済思想家/大阪市立大学准教授の斎藤 幸平さん。メインパーソナリティーは鹿島茂さん。
https://peatix.com/event/1897931/view
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