クリスティー作品の中で食べ物が果たす役割
なんて贅沢な本なのだろう! これが、本書を訳し終えた私の率直な感想です。クリスティー・ファン、ミステリ・ファンの皆さんなら、「クリスティーと料理」をテーマにした書籍がすでに複数冊出版されていることをご存じかもしれません。どの本にも美味しそうな料理やイギリスの美しい田園風景、ときにはクリスティーの貴重な写真が載っていて、見ているだけで楽しくなります。ですが、『料理からたどるアガサ・クリスティー』がそうした本と趣を異にすることは、ぱらぱらとページをめくるだけで一目瞭然――そう、イギリスを代表するフィッシュ・アンド・チップスやキャッスルプディング、異国情緒漂うフムスとピタパンやモロッコ風ミントティー、ポワロが愛するホットチョコレートやミス・マープルの好物ヤマウズラのローストなど、本書に登場するどの料理のレシピにも、食欲をそそる写真は添えられていません。代わりに皆さんが目にするのはアガサ・クリスティーの66の長編の作品紹介、作品に登場したり縁があったりする料理のレシピ、年代ごとのクリスティーの状況や当時のイギリスの世相と盛りだくさんの内容です。私がなぜ「なんて贅沢な本」と思ったのか、きっとおわかりいただけるでしょう。
本書の著者カレン・ピアースいわく、「クリスティーがさまざまな料理や飲み物、材料を作品中でどのように取り入れているかに注目しました」(〈はじめに〉より)。殺人の凶器として、登場人物の性格や社会背景を表す手段として、事件解決の手がかりとして、クリスティー作品には食べ物の存在は欠かせません。誰もが見逃しがちな細部を取り上げて話を広げていくピアースの文章を読むと彼女がいかにクリスティー作品を読み込んでいるかが伝わってきて、訳しながら思わず「同志よ!」と叫びたくなりました(実は私も筋金入りのクリスティー・ファンです)。
また、クリスティー研究家で、彼女の孫マシュー・プリチャードとも親交のあるジョン・カランは、〈序文〉で「本書には社会史的な側面もある」と述べています。「読者は温かい料理が機内食として初めて提供された時期、ろ過装置付きのコーヒー沸かし器が発明された年、ニューバーグ・ロブスターやピーチ・メルバ、オイスター・ロックフェラーの始まり、第二次世界大戦中に一般家庭で働いていた使用人の状況、現代レストランの起源についても知ることができるだろう。そして、同じ料理の調理法が時代によって変化したことも」。作品紹介に加え、このような豆知識を得ることができるのも本書の特徴のひとつでしょう。
そして、肝心のレシピはどれもピアース自身が考案し、実際につくったものです。「家庭で手軽につくれるものに絞った」という彼女の言葉通り、あまり料理が得意とは言えない私でも挑戦してみたいと思うものがいくつもありました。また、本文の〈もしもクリスティーの登場人物と食べるなら……〉を参考に、「もしも自分がポワロと食べるなら」などと想像して本書のレシピを自由に組み合わせたオリジナルコースを考えるのも楽しそうですね。
クリスティー・ファンの皆さんも、テレビや映画でしか見たことがないという方も、本書をきっかけに多方面からクリスティーの作品世界に触れていただければ嬉しく思います。ちなみに、本書で紹介されている長編のなかで私のお気に入りは『アクロイド殺人事件』、『なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?』、『動く指』、『予告殺人』、『ゼロ時間へ』など多々ありますが、翻訳者として「訳してみたい」と魅力を感じるのは何と言っても『終りなき夜に生れつく』です。ピアースが「不気味で重苦しい雰囲気に満ちている」(本文185ページ)と評したこの作品はミステリの枠を超えて人間が持つ闇の部分を見事に描き出していて、クリスティー自身が選んだ「お気に入りの10冊」に入っているのも納得です。
[書き手]富原まさ江(出版翻訳者)