書評
『ゆれる水脈――写真 表象のさきに』(みすず書房)
「個」掘り下げた先に普遍への道
穏やかで冷静な、どこか寺田寅彦や中谷宇吉郎の随想を思わせる写生に近い呼吸でつづられた文章と、撮り下ろしの写真。高校を中退し、二十歳で定時制高校に入り直して、卒業後の「無軌道」な日々を経たのち、荒木経惟の写真集との偶然の出会いから写真家を志したという平坦(へいたん)ではない来歴とここにならぶ言葉の感触は、心地よくざらついた肌理(きめ)を保ちながら、みごとに融合している。本書の執筆を下支えしたのは、ロラン・バルトの『明るい部屋』だった。「私」を一般化しないバルトの「個別学」は、たしかに「私」のまま考え抜く力を与えているのだが、見る者に徹したバルトが写真の本性を「それは=かつて=あった」と定めたのに対し、著者は撮る者として「それは、現に、ある」と書き換えてみせる。「現に」は「現実に」の意。二十代のころ内心で呟(つぶや)いた「写真は、私にはひりつくような現実や」という一句が、この定式を先取りしている。そのような思考を生んだのは、幾度も反復される「答えであるのに問い」という文言だ。幼い日、鏡に映る自分の姿に、著者は「この子は誰?」と問いかけた。しかし答えは問いよりも先に、鏡のなかに在った。その答えが問いを促したのである。
認知症を患う祖母の、自傷を防ぐためにつけられた「ミトンのような手袋」を外してほしいと訴える場面が、ことに印象深い。「ふと懇願の気配が消え」、祖母がその願いを「諦めたというよりは、懇願しているという記憶が消えてしまったと感じられる」とする焦点距離の定め方には、相対する人の内面に物語を与えず、<認知症の老人>といった一般名詞に祖母を回収しないための、気配りではなく「気配」に敏感な倫理がある。
最初の写真集『繡』は、祖母の写真からはじまった。画面の中央に正面から据えられた祖母は撮影用の表情を纏(まと)わず、その眼(め)はこちらを見ているようで見ていない。写っているのは<老婆>ではなく「祖母としかいいようのない」存在なのだが、その「個」はけっして孤立していない。つぎの作品集となる『雪の刻(とき)』の制作のなかで、著者は「個の存在」の本質をつかみとった。新潟・津南で雪の撮影をするうち、春や夏の写真にも冬の気配が写り、一年中そこに在る「雪」が万物の「時」の刻みを律していることに気づかされたのである。人の引いた区分を越え、固有の響きをもって広がる領野が「この地」そのものであり、「個の存在」はつねにそうした「系」のなかでのみ成り立つ。世界は「無地の布」ではなく「多色に染め分けられた布」だと悟るのだ。
本書の思考はいつも、目の前の物を見つめることからはじまっている。けれどレンズは撮る者の側を写せない。喪のあとを生きる「私」の水脈はつねにレンズのこちら側にある。そのこちら側をかつて著者に示したのは、写真ではなく祖母の日記の文字だった。幼い自分の後ろ姿がそこに記されていたのである。バルトが母の本質を見いだした「温室の写真」を自著に掲載しなかったように、本書にも祖母の写真はない。ここにつづられた言葉たちが代わりに喪のあとを追う印画紙となって、「私」や「この地」を掘り下げた果てで他者の水脈とつながり、これからも普遍へと開かれていくのだろう。
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