異質な知覚、写らなかったものの影
西欧近代文明の典型的な産物である写真が、日本の社会にどのように受け入れられたか。三人の写真家、木村伊兵衛、土門拳、濱谷浩の評伝を通じて、著者はそれを可能な限り奥深くまで追求しようとする。「写真丸ごとをもっていかに生きるかという問いを我が物として引き受けることになったのが、写真家という存在なのである」。木村はライカを手にしてスナップショットを、土門は写真集『ヒロシマ』『筑豊の子どもたち』に見るように現代社会のありようを、その同じ眼が『女人高野室生寺』の古仏から『古寺巡礼』の古仏たちを、濱谷は『雪国』で新潟・桑取谷の「生活の古典」を記録する。
それぞれの写真家についての著者の思い入れは強く深く、それが文面から伝わってくる。けして読みやすい文章とは言えないが、このところしばらく軽い文章ばかり読まされて来たように感じているので、久しぶりに内容のある文章を読んだ感がある。
著者は写真を「機械の知覚」と表現し、それが示す存在の深淵とでもいうべきものに言及する。現代社会において、写真はあって当たり前のものだから、それがそもそもどのような存在を写すか、などという根源的な疑問など、湧きようがない。そんな面倒なことを考えるくらいなら、眼の前にあるものをサッサとスマホで撮って、終わりにしてしまいましょうということになる。
評者自身もこの夏は写真を含む二つの虫展を行っている。一つは大分県立美術館で小檜山賢二と共同、もう一つは生まれ故郷の鎌倉文華館鶴岡ミュージアムでの単独の虫展である。大分のものは小檜山の写真に私が言葉を付ける形だが、写真がすでに語っているのに言葉をさらにつけるのは野暮である。ただ虫の写真は本書で扱われる写真家のものと違って、対象がヒトではないから、現代の写真技術の進歩に伴って、驚くべき自然物の詳細が示されることになる。
思えば医学生物学の分野では、ここ数十年、画像技術の進歩が著しく、それに伴って写真の重要性が増した。その割には写真について論じられる機会が少ないと感じる。本書で扱われる写真家の写真は当然だが、他の分野の写真についても、もっと様々な論考があっていいのではないかと思う。
濱谷は要するに、人間の身体の知覚とカメラという機械の知覚は本性において異なる、そう言っている。本書の読者なら、もうお気づきだろう。無論、このことは濱谷ひとりの発見であるどころか、木村伊兵衛も土門拳も――そして写真の道をまっすぐに行く者なら誰もが――突き当たるように発見するほかないことだ。それぞれの実践者が身から出た言葉で、汲み尽くしえぬその写真の秘密をなんとか説きおこそうとしてきた。木村、土門がいて、一世代下の濱谷にしてもなお、ただ独りで繰り返しこの原典、異質なふたつの知覚の結合という写真の原理に立ち戻り、一途に写真なるものを感じ、考え続けなければならなかった。
自然科学における写真には、この種の悩みはほぼない。写ったものはあるもので、あるものはしょうがないのである。そこで写らなかったものに思いを寄せる人はほとんどいない。