コラム

ジョセフ・ヒース『啓蒙思想2.0』(NTT出版)、リチャード・セイラー『行動経済学の逆襲』(早川書房)、古谷田奈月『リリース』(光文社)

  • 2019/05/16

ニュースを見ても何が「真実」なのかわからない。そんな現代を読み解くヒントが詰まった三冊。

「ポスト・トゥルース」は、アメリカ大統領選や、イギリスのEU離脱(ブレグジット)などをめぐって浮上したキーワードで、オックスフォード英語辞書が二〇一六年を象徴する言葉に選んだことが話題を呼び、日本でも流行語となった。

「客観的事実よりも感情的な訴えかけが世論形成に大きく影響する状況」というのが同辞書の定義だが、具体的には、事実などお構いなしに都合のよい「真実」を強弁する政治家や文化人知識人やメディア、都合のよい「真実」を信じ込む人々、人々の選択した「真実」の「正しさ」をひたすら増幅補強するSNS環境。それら一連のサイクルによって生み出される状況がポスト・トゥルースである。「要するにデマだろ?」という突っ込みはもっともなのだが、デマだと指摘糾弾しても改善に向かわず、かえって悪化するところに、この問題のやっかいさと根深さはある。

ジョセフ・ヒース『啓蒙思想2・0』(栗原百代訳、NTT出版)は二〇一四年の本だが、冒頭に、アメリカで紛糾している「真実っぽさ」問題が置かれている。

アメリカがどうもまずいことになっていると大衆が意識しだしたのは、二〇〇五年であったろう。コメディアンのスティーヴン・コルベアが真実っぽさ(truthiness)という新語を広めた年だった。この言葉は、政治家が合理性、証拠、さらには事実に基づいた議論に代わって、むやみに感情や『勘』に訴えるようになってきている現状を評したものだ。

ヒースは「二〇〇五年以降、コルベアが描出したこの病態は、むしろ悪化の一途をたどった。たとえば二〇一二年大統領共和党予備選挙は、議論、論争がどんどん現実から遊離して、ほとんどこの世のものとは思えない様相を呈した」と続けているが、さらにこじれてトランプ大統領の誕生と相成ったわけだ。

『啓蒙思想2・0』はこの困難を「理性」の「直感」に対する敗北と位置づける。直感的な判断は説明不能であり不合理である。理性的な判断は説明可能であり合理的である。直感は誤るから理性によって糺(ただ)していかねばならない――一八世紀以来の啓蒙思想(1・0)とはそういうプログラムであったわけだが、ポスト・トゥルースとはその理想の破綻、理性は直感に仕える奴隷でしかなかったという事実の露呈なのだ。だがそれでも人類は理性によって「正気を取り戻す」べきであるとヒースは説く。「啓蒙思想2・0」という名称は、直感に対する敗北を受け入れた上で、理性を立て直すための新たなプログラムという意味で付けられている。

啓蒙思想2.0―政治・経済・生活を正気に戻すために / ジョセフ・ヒース
啓蒙思想2.0―政治・経済・生活を正気に戻すために
  • 著者:ジョセフ・ヒース
  • 翻訳:栗原 百代
  • 出版社:エヌティティ出版
  • 装丁:単行本(488ページ)
  • 発売日:2014-10-24
  • ISBN:4757143192
内容紹介:
理性はどこでねじれたのか?メディアは虚報にまみれている。政治は「頭より心」に訴えかける。真実より真実っぽさ、理性より感情が優る、「ファストライフ」から脱け出そう!スロー・ポリティクス宣言。

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ヒースの提示する「直感」と「理性」という対立は、行動経済学の依拠する認知心理学の「速い思考」「遅い思考」(ダニエル・カーネマン)という2システム・モデルを踏まえたものだ。二〇一七年度のノーベル経済学賞受賞者リチャード・セイラーの『行動経済学の逆襲』(遠藤真美訳、早川書房)は、異端とされたこの研究を最前線へ押し上げた第一人者の一代記である。

受賞後、セイラーが相田みつをのファンだというので話題になった。それまでの経済学の理論は、あらゆることを合理的に判断し決して間違えない「エコン」と呼ばれる超人をモデルに組み立てられていた。でも現実の我ら「ヒューマン」は、「人間だもの」と漏らさずにいられない不合理な行動を取ってしまうみつを的存在である。「ヒューマン」をモデルに経済学の理論を組み直した行動経済学の知見に照らせば、人間というのはポスト・トゥルースにはまってしまうものなのである。

行動経済学の逆襲 / リチャード・セイラー
行動経済学の逆襲
  • 著者:リチャード・セイラー
  • 翻訳:遠藤 真美
  • 出版社:早川書房
  • 装丁:単行本(527ページ)
  • 発売日:2016-07-22
  • ISBN:415209625X
内容紹介:
経済学界から攻撃されつつも、今や社会に浸透した行動経済学。その波乱万丈の道のりとは? より良い世界を経済学でどう築けるのか?

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ポピュリズムによりもたらされるディストピアをテーマにした古谷田奈月『リリース』(光文社)が発表されたのは、奇しくもトランプ政権が成立する直前のことだ。この小説が描いているのは、だが興味深いことに、トランプ政権や安倍政権などに危惧されるのとは正反対の、リベラルな価値観が行き過ぎたディストピアなのである。

オーセル国の女性首相ミタ・ジョズは、男女同権を過激に推し進め、同性婚を合法化した。生殖も個人から切り離され国のコントロール下に置かれ、人工授精による代理出産が実質的には唯一の手段となっている。性差が完全に相対化されたこの国では、もはや同性愛者がマジョリティであり、異性愛者はそれだけで性差別主義者と糾弾されるマイノリティに堕ちている。ここで描出されているのは、リベラリズムが反転した全体主義である。

ミタ政権は一度テロに襲われた。政府の罠に掛かり精子を盗まれた異性愛者のボナが、ミタの欺瞞を告発するべく精子バンクを占拠したのである。だがボナは共犯のエンダに射殺されテロは未遂に終わり、事件は急速に忘れ去られていく。主人公のトランスジェンダー少女ビイがジャーナリストを志したのは、この事件がきっかけだった。

「真実を見定めようと記事を読むのに、そこにはすでに、誰かによって定められた真実が記されている」ことにビイは苛立(いらだ)ったのだ。「確かにみんな、自分の意見を持ってはいる。でも実際は、ただ信じたいことを信じているだけではないのか」。

ミタ政権は七〇パーセントという高支持率を割らない。政府がメディアに圧力を掛けていることもあるがそれだけではない。報道される「真実」が真実を覆い隠しているからであり、ボナのテロがやけに早く風化しつつあるのもそのせいだ。

ビイはやがて「事実を切り抜くだけ」で判断は「すっかり読者に委ねている」『クエスティ』というニュース・サイトを知り魅了される。同サイトの新米記者となったビイは、事件後、政府の要職に収まり姿を隠したエンダの取材を画策する。奇跡的に接触に成功したビイが『クエスティ』の記者だと名乗ると、彼はこう答える。

「読んでるよ。詩集みたいなニュースサイトだ」

意味深長で面白いくだりなのだが、さてどういうことかと考えるとなかなか難しい。ポスト・トゥルースの時代において、事実とは詩のように儚(はかな)いものなのだ、と差し当たり散文的な解釈をしておこうか。

リリース / 古谷田 奈月
リリース
  • 著者:古谷田 奈月
  • 出版社:光文社
  • 装丁:文庫(363ページ)
  • 発売日:2018-10-10
  • ISBN:4334777295

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初出メディア

小説すばる

小説すばる 2018年1月号

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