「文脈の自由」に潜む大きな可能性
文学部不要論が話題になったのは確かに六、七年前のことであった。だが、いまや現場の関係者たちはむしろ現実を冷静に受け止めている。ただ、出版メディアではいまだに論争の余燼(よじん)がくすぶっている。試合はとっくに終わったのに、なぜ外野ではチアダンスがまだ続いているのか。一言でいうならば、時代の不確実性による不安であろう。有用と無用が市場での勝ち負けの隠喩になった以上、文学部は一つの寓意に過ぎない。文学が役に立つと主張しても、効用至上主義の思考回路に引きずり回されているだけだ。その場合、議論の戦術として、語りの迂回(うかい)機動が求められる。従来の論争から遠く離れてこの問題に迫る本書はまさにその点において独自性を示している。
著者によると、文学は文脈に深くかかわっており、文脈は自由と密接不可分の関係にあるという。文学の営みはその社会的役割をはるかに超えており、文学の本質を探ることは世界に対する哲学的認識を深めるきっかけになる。
技術が進歩し、社会機能が細分化する今日、局所的な事象は生活の全般を覆い、生の全体像はますます把握しにくくなった。人々はメディアやネットに流れる情報を鵜呑(うの)みにし、凝り固まった固定観念でしか世界を捉えられていない。
市場社会では人間を含めすべての事物は貨幣価値によって値踏みされ、人間の能力はモノになり、人と人の関係は商品交換のようにモノとモノの関係と見なされた。事物同士の生活連関が分断され、その内在的意味が奪われた。政治的な自由が保障されているという安心感の背後に、自由の困難という問題はつねに横たわっている。
自己増殖を続ける市場に振り回されるのではなく、人間の主体的な生き方を取り戻し、将来を見通すためにはどうすればよいか。科学万能の神話に惑わされるのではなく、錯綜した現象の奥底に潜んでいる本質を読み解く力が求められる。その能力はテクスト読解の訓練を通して身につけられる。なぜなら、人間は言語の動物で、芸術としての近代小説や近代批評には人間の叡智が言語表現の結晶として凝集されているからだ。
一口にテクスト読解とは言っても、さまざまな手法がある。著者が示したのは「文脈の自由」である。そして、「文脈の自由」とは何かについて、個々の作品に即して、納豆のような粘り強い文体で、遠回しに遠回しを重ねて語られている。
文脈の自由とは第一義的に、むろんテクストの開かれた可能性を意味している。と同時に、テクストの文脈からの自由も示唆している。さらには失われた文脈を補うことで新たな知見をえることもできるし、新しい文脈を発見することによってテクストの限界を超えることもできる。
聖書から近代小説やマンガにいたるまで、読解の対象作品はそれぞれに時代が異なり、形式も内容も多岐にわたる。いずれも斬新な着想にもとづいて徹底的に吟味され、読者の裏をかく展開は、これでもかこれでもかと続いている。紙背に徹する胆汁質の眼光と、顕示的な引用にあやどられた文体には、舌を巻くばかりだ。「文脈の自由」に大きな可能性が潜んでいることは、読みの実践を通して見事に示されている。