作家論/作家紹介

村上春樹『カンガルー日和』(講談社)、『風の歌を聴け』(講談社)、『1973年のピンボール』(講談社)、『羊をめぐる冒険』(講談社)、『ダンス・ダンス・ダンス』(講談社)

  • 2020/02/05

消えた海岸のゆくえ

村上春樹の『カンガルー日和』は、コント風の小品や長篇のための習作のコラージュ、作者の言葉を借りれば、「短い小説-のようなもの」を集めた、批評の対象となることのほとんどないマイナーな著作なのだが、しかし彼の作品世界を考えるための手掛かりを与えてくれるという点では無視できない短篇集(のようなもの)である。たとえば長篇『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が書かれたことにより、集中の「図書館奇譚」の存在は重要になった。あるいは「彼女の町と、彼女の緬羊」は『羊をめぐる冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』をつなぐ役割を果たすことになった。だがぼくにとって一番気になるのは、『羊をめぐる冒険』のスケッチと思われる「5月の海岸線」である。

これは奇妙な作品で、書き出しはともかく、後半の調子が村上春樹らしくない。それは作者の分身と思われる主人公が、久々に帰ってきた故郷の「街」で海岸が埋め立てられているのを発見したときの衝撃と喪失感をモチーフにしているのだが、そのそデルと思われる芦屋海岸の埋め立てられた光景を、実はぼく自身、一九七〇年代初めに偶然目にし、大きなショックを受けている。それは小学生のときに海水浴に行った横浜の三景園の海が埋め立てられたのを中学生になって見たときのショックを想い出させるものだった。おそらくこの個人的体験も、ぼくが「5月の海岸線」にこだわる理由のひとつにちがいない。この短篇に描かれた海岸消失の風景はあまりにもリアルなのである。しかもそこには他の作品にはない強いプロテストの調子が見られるのである。ところがこれが『羊をめぐる冒険』に組み込まれると、プロテストは抑制され、真昼の風景は夜景に、初夏という季節は梅雨時に変えられ、見事に熱を奪われてしまうのだ。この陽画から陰画への変換はまさしく村上春樹の手法を端的に示しているといえるだろう。

それからもうひとつ、この小品が気になるのは、海岸の消失に触発されて、主人公が過去を回想し、様々な場面をノスタルジックに語っていることだ。登場人物の口を借りてであるにせよ、主に近過去を語ることの多い作者が昭和三十年代前半の子供時代の記憶をリアルに語ることは珍しく、また『羊をめぐる冒険』にはその回想はない。

その部分を読んである小説を思い浮かべた。それは中上健次の『灰色のコカコーラ』という中篇である。麻薬とジャズを重要なファクターとしていること、薬物によって混濁した意識を描いていること、地方出身の作者による都市小説であることなど、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』と多くの共通点をもった作品なのだが、しかし二つの作品には決定的な違いがある。それは薬物と音楽の喚起するイメージで、『限りなく透明に近いブルー』のリュウの場合はもっぱら現在に基づいているのに対し、『灰色のコカコーラ』の山田明の悪夢的イメージは、現在と過去の二つの時制に基づいている。そしてそれらのうち過去から湧き出てくるようなグロテスクなイメージは、主人公の原風景すなわち故郷の風景である。歩いても歩いても山ばかりの風景、杉の木とすすきだけの風景、お盆の供物の置かれた夜の川岸、朝鮮部落のとなりの古い崩れかかりそうな家ばかりたった町。そんな風景がドラムとベースの呪術的響きをバックに次々と浮んでは消える。その中にクマノ川の川原で黒い海辺に打ち上げられた死体に烏がホンダワラのようにむらがっている、という無気味なイメージがある。日常的現実の裂け目から突如滲み出てくる子供時代の記憶、故郷の原風景、そして水死体、これらがおそらく「5月の海岸線」と「灰色のコカコーラ」を結びつけたのだろう。中上健次の場合は、そうした原風景がやがて『岬』をはじめとする紀州をトポスとする小説を生むことになるのに対し、村上春樹の場合は、原風景が登場人物の回想の中で語られることはあっても、それは決して現在の風景とはならない。つまり村上春樹は決して過去へと垂直に下ろうとせず、彼自身の子供時代を直接描くこともないのだ。だいいち「5月の海岸線」でも舞台は架空の「街」ということになっている。それだけにアンバランスな感じがするのである。

「5月の海岸線」の語り手である「僕」は、今は役に立たない古い防波堤の上ですれ違った子供たちに話しかけるかのように過去を回想する。二十年前には海で泳いだこと、西瓜を井戸で冷やしたこと、海岸道路を散歩したこと、過去の光景が次々とフラッシュ・バックされる。ところがそこで突然語り口が変化する。話し言葉がジャーナリスティックな調子に変り、溺死体のことを語り始めるのである。

海岸には年に何度か溺死体も打ち上げられた。大抵は自殺者だった。彼らが何処から海に飛び込んだのかは誰にもわからない。ネームのついていない洋服を着て、ポケットに何ひとつ所持品のない(あるいは波にさらわれてしまった)自殺者たちであった。

それらは身許不明の、いわば抽象的な死者たちである。しかし続けて、その中に具体性をもった死者が混じっていたことが語られる。

時の流れに迷いこんだ遺失物のように、死はゆっくりと波に運ばれ、ある日静かな住宅地の海岸に打ち上げられた。
その中の一人は僕の友人であった。ずっと昔、六歳のころのことだ。彼は集中豪雨で増水した川に呑まれて死んだ。春の午後、彼の死体は濁流とともに一気に沖合へと運ばれ、そして三日後に流木と並んで海岸に打ち上げられた。
死の匂い。
六歳の少年の死体がかまどで焼かれる匂い。
四月の曇った空にそびえ立つ火葬場の煙突、そして灰色の煙。
存在の消減。

村上春樹の作品では『風の歌を聴け』から『ダンス・ダンス・ダンス』に至るまで、近しい人間、ことに友人が数多く死んでいるが、六歳の少年の死はそれらの原点とみることもできるだろう。ところが、友人の死という厳粛な出来事の起きたかつての海岸は今は埋め立てられ、その代わりにあるのは「コンクリートを敷きつめた広大な荒野」とそこに「何十棟もの高層アパートが、まるで巨大な墓標のように見渡す限り立ち並んでい」る風景である。それは「巨大な火葬場のよう」でもある。そしてその風景に向って「僕」はあたかも呪詛のような激しい言葉を浴びせるのだ。

僕は預言する。
五月の太陽の下を、両手に運動靴をぶら下げ、古い防波堤の上を歩きながら僕は預言する。君たちは崩れ去るだろう、と。
何年先か、何十年先か、何百年先か、僕にはわからない。でも、君たちはいつか確実に崩れ去る。山を崩し、海を埋め、井戸を埋め、死者の魂の上に君たちが打ち建てたものはいったい何だ? コンクリートと雑草と火葬場の煙突、それだけじゃないか。

ここに、一九六〇年代の高度経済成長と開発がもたらした見慣れぬ風景、人の姿もなければ「生活の匂いもない、のっぺりとした道路を時折自動車が通り過ぎていくだけ」の、しかしどこか未来都市を想わせもする幻想的風景を拒否しようとする主人公の姿勢を見ることは可能だろう。だがこの姿勢は作者自身の好みとは必ずしも一致してはいない。なぜならここに描かれているような風景を彼は本来好むはずだからだ。あるインタヴューの中で彼は現実の街には興味がなく、架空の街の方が好きであると言い、さらに次のように述べている。

村上 架空の街が好きなのは、引っ越しが好きなのと同じような気がするんです。……引っ越して来たばかりの街というのは、人が、なんか架空の人みたいじゃない。実体がなくて、ただ歩いているというだけで。……ただ、しばらくいると、そこに実体が付加されて、しんどくなってきちゃう。でまた、実体のないかりそめの街みたいなところに住みたくなってくる。子供のころからそうだった。自転車に乗ってやたら遠くに行って、そこで座っていろいろ見ているのが好きだった。

この言葉からすれば、埋め立て地に出現した新しい街を眺めることは不愉快というよりむしろ快楽であるはずだ。なぜならそれはのっぺりとしたまさしく「実体のないかりそめの街」そのものだからだ。「5月の海岸線」が奇妙に感じられるのはそのためである。古い海岸線の向うに新しい、もうひとつの世界が広がっている。それは埋め立て地であると同時に一九六〇年代的状況でもある。「僕」は今、こちらの古い世界の果てにいるのだが、それは新しい世界の果てでもある。しかしはたして「僕」はあちらの世界を拒み続けることができるのだろうか。「僕」の次の言葉は、このことに対する自信のなさ、不安を表わしているのではないだろうか。

太陽が中空を過ぎ、堤防の影が川面を横切っていくのを眺めながら僕は眠ろうとしていた。そして薄らいでいく意識のなかで、ふと思う。目覚めた時、僕はいったいどこに居るのだろう、と。
目覚めた時、僕は……

問は宙吊りのままである。ところが、『ダンス・ダンス・ダンス』では、同じ問が発せられると同時にそれに解答が与えられるのだ。

目が覚める。ここはどこだ? と僕は考える。考えるだけではなく実際に口に出して自分白身にそう問いかける。「ここはどこだ?」と。でもそれは無意味な質問だ。問いかけるまでもなく、答えは始めからわかっている。ここは僕の人生なのだ。僕の生活。

まるで「5月の海岸線」の最後と連続しているかのような一節である。そして作者によれば『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」は三部作の「僕」と原則として同一人物であるということだから、「5月の海岸線」の「僕」とも同一と考えていいだろう。しかし両者の姿勢には明らかに違いがある。つまり『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」は、かつての「僕」が拒みあるいは入ることをためらった新たな世界、新たな状況の内側にすでにいるのだ。「現実と自分をコネクトし、僕なりのささやかな価値観に基づいた新しい生活を築きあげてきた」という彼の言葉はそれを示すものといえるだろう。「現実」とは一九八〇年代的状況、高度資本主義社会である。「僕」は高度資本主義の論理がすべてを支配していることを繰り返し唱え、その批評は行なう。しかし決して批判はしない。もっともこの姿勢は、『羊をめぐる冒険』においてすでに現れていた。それは「5月の海岸線」と表裏を成す場面で、「僕」は高層アパートの建ち並ぶ埋め立て地を眺めてこう言うのだ。

物哀しい風景だった。
しかし僕にいったい何を言うことができるだろう? ここでは既に新しいルールの新しいゲームが始まっているのだ。誰にもそれを止めることなんてできない。

ガルシア=マルケスの『落葉』『大佐に手紙は来ない』を彷彿させる一節だ。それらの小説では土着共同体に属している主人公の大佐が、後から来た人々からなる社会から疎外され先にいた自分たちの方がよそ者になってしまったことが淡々と語られる。「僕」の感慨は「大佐」のそれと酷似している。だがそのことは見方を変えれば、「僕」は自分が古い土着社会に属しているのを自覚していることにもなる。つまり「僕」はまだ心理的にあちらの世界に足を踏み入れてはいないのだ。しかしその準備はもはやできかかっているように見える。なぜなら「僕」は目の前の風景を、「そこ」と突き放すのではなく、「ここ」と呼んでいるからだ。飲み終えたビールの空缶を「かつては海だった埋立地」に放り投げたのを、警備員に咎められたときの「僕」の反応は象徴的である。

僕はしばらく黙っていた。体の中で一瞬何かが震え、そして止んだ。

『ダンス・ダンス・ダンス』の風景は、東京にせよ札幌にせよ、ホノルルにせよ、すべて平板、作中の言葉を借りれば「のっぺりとし」ている。それらは「5月の海岸線」で「僕」が眺めた埋め立て地の風景に似かよっている。特徴的なのは海岸である。そこで描かれるのはワイキキ、湘南と、コマーシャライズされたリゾート海岸(ビーチ)なのだ。そして何よりも注目すべきなのは、物語の出発点となるのが「街」ではなく、東京になっていることだ。この長篇にはもはや「街」も埋め立て地にわずかに残った海岸も出てこない。なぜだろうか。

長編三部作では「街」と海岸は共通して重要なトポスとなっていた。なかでも海岸は主人公と過去との「結び目」という役割を果していたばかりか、『羊をめぐる冒険』では、埋め立てられた海岸にわずかに残った砂浜は「僕」の再生の場でもあったのだ。この長篇のエピローグを想い出そう。北海道の別荘の爆発炎上とともに、すでに死の世界の住人だった「鼠」が消減した後、「僕」は「街」へ戻ってくる。そして海岸へと向うのだ。その場面は次のように語られる。

僕は川に沿って河ロまで歩き、最後に残された五十メートルの砂浜に腰を下ろし、二時間泣いた。そんなに泣いたのは生まれてはじめてだった。二時間泣いてからやっと立ち上ることができた。どこに行けばいいのかはわからなかったけれど、とにかく僕は立ち上り、ズボンについた細かい砂を払った。
日はすっかり暮れていて、歩き始めると背中に小さな波の音が聞こえた。

この「砂浜」が、小説の前半で「僕」が埋め立て地の間に残っているのを見つけた砂浜であることを我々はすでに知っている。この「砂浜」が「僕」にとりいかなる意味をもつかは、北海道の別荘で交わされた「鼠」との最後の会話に明らかにされている。

鼠はそこで何かを思い出すように少し口をつぐんだ。「淋しくなかった?」と僕は訊ねてみた。
「淋しくなんかないさ。できればずっとここにいたかったよ。でもそうはいかない。だってここは父親の家だからね。父親の世話になりたくなかったんだ」
「今だってそうだろう?」
「そうだよ」と鼠は言った。「だから俺はここにだけは来ないつもりだったんだ。でも札幌のいるかホテルのロビーでここの写真を偶然見た時、どうしても一目見ておきたくなったんだ、どちらかというと感傷的な理由でね。君だってそういうことはあるだろう?」
「うん」と僕は言った。そして埋めたてられてしまった海のことを思い出した。

別荘は、戦後米軍を利用することで事業に成功した「鼠」の父親が建てたものだが、ここではそのことよりも、「鼠」がそこで黄金時代を過ごしたという事実の方が重要である。つまりそこは「鼠」にとって、少年期の黄金時代という過去との「結び目」となる特別な場所だということだ。しかし黄金時代は終り、「鼠」の家庭は崩壊し、別荘は廃屋となる。黄金時代は別荘の内側へと埋め込まれてしまうのだ。「僕」はそのイメージを「埋めたてられてしまった海」と重ね合せるのである。ここでいう「海」が海岸を意味していることはいうまでもないが、それは一九五、六〇年代という状況でもある。「鼠」の言葉に触発されて、「僕」は「海」とそれが象徴する過去の状況に強いノスタルジーを覚えたのだ。そのノスタルジーに誘われて「僕」は「砂浜」に戻った。

しかしそれだけでは「僕」がふたたび「砂浜」に戻った理由を説明するのに十分とはいえない。「僕」はどうしても戻らねばならなかったのである。ではなぜか。それを知るには、三部作およびその一部と考えられる「5月の海岸線」のすべてを考慮する必要がある。

まず『風の歌を聴け』だが、そこにはすでに海岸が描かれていた。それは「僕」と「鼠」がはじめて友人関係を結ぶ場所となる。泥酔した二人は車もろとも公園に突っ込み、車は大破するのだが、彼らは怪我をせずにすむ。そしてそれを祝し友情を結ぶ儀式としてビールを飲む。その後は次のように語られる。

僕たちはビールの空缶を全部海に向って放り投げてしまうと、堤防にもたれ頭の上からダッフル・コートをかぶって一時間ばかり眠った。目が覚めた時、一種異様なばかりの生命力が僕の体中にみなぎっていた。不思議な気分だった。

この作品では埋め立てについては触れられていないのだが、しかし彼らは「砂浜に寝ころんで」ビールを飲んだとあるところから、『羊をめぐる冒険』と同じ場所と考えていいだろう。つまりそこは、二人にとって記念すべき場所であると同時に、「生命力」をもたらす場所すなわち再生の場でもあったのだ。分身である「鼠」が過去とともに死んだ後も、「僕」は生き続けなければならない。そのために「僕」はとりあえず「退屈さにみちた凡庸な世界であるにせよ」「僕の世界」である「生ある世界」に戻ってくる。そして彼はジェイズ・バーに寄ってから「砂浜」に行くのだ。この行為は友人の葬儀と見ることができ、彼が泣くのはその追悼のためと見ることができる。一方、彼自身はそこで再生しなければならない。したがって彼の泣くという行為は産声と見ることもできるのである。

海岸は「鼠」にとっても子供時代の記億とつながっていることが、(ほとんど「僕」の記憶に等しい形で)『1973年のピンボール』に語られている。「白い砂浜と防波堤、緑の松林が押し潰されたように低く広がり、その背後には青黒い山並みが空に向けてくっきりと立ち並んでいる」風景は、埋め立てる以前の海岸のそれにちがいない。「少年時代を通しての春から秋にかけて、鼠は何度も灯台に通」い、「突堤の先に座って波の音に耳を澄ませ、空の雲や小鰺の群れを眺め、ポケットに詰めた小石を沖に向って投げ」た経験をもつが、それは後の海に向ってビールの空缶を投げるという行為の原型だろう。『風の歌を聴け』で「僕」と「鼠」が海に向って無邪気に空缶を放った光景を、『羊をめぐる冒険』で「僕」が独りで埋め立て地の「雑草の海」へ向って投げる光景と重ね合せるとき、後者における「鼠」の不在と海岸の消失は際立ってくる。

もちろんこの「砂浜」に、「5月の海岸線」で語られているような、かつて水死体の漂着する聖なる場所だったという側面を加えてもいいだろう。埋め立てによって死者たちの魂は高層アパートの下になってしまった。だが、「砂浜」はかつての聖なる場所が唯一露出しているところであり、過去、土着性はそこにのみ見出すことができる。「僕」はそこを生死に関わる特別な場所とおそらくみなしているのである。

村上春樹は長篇三部作によって青春に決着をつけようとした。そしてそれは完遂されたかに見える。なぜなら、「鼠」を「別荘」とともに殺すことで過去に区切りをつけたように、「僕」の青春のトポスであったあの故郷の「砂浜」を『ダンス・ダンス・ダンス』では消し去っているからだ。それに「街」について言及されることもない。舞台は三部作において関西-東京-北海道とオーバーラップしながらもズレていき、『ダンス・ダンス・ダンス』では東京(周辺)-札幌-ホノルルとなっている。『羊をめぐる冒険』で緬羊事業の終息という事件に重ねて自らの作品世界における土着性に決着をつけた作者は、主人公の故郷そのものも作品世界から消してしまったのである。こうして主人公の「僕」は都市生活者として再登場する。

ここで作者が『ダンス・ダンス・ダンス』の主要な舞台として札幌を選んだ理由を考えてみよう。

村上春樹は『風の歌を聴け』ですでに架空の「街」を作っている。モデルは芦屋であるが、具体的な風景についてほとんど何も語られないことで、強い虚構性を発揮していた。また作者が東京で地方出身者という立場に身を置き、そこからスタンスをとって故郷を眺めることで、客観性を獲得できたことはいうまでもない。彼はこの事実の重要性をしばしば強調しているが、それは都市小説が書かれる際の基本的条件といってよい。ぼくが関心を抱くラテンアメリ力の作家をみても、フエンテスのメキシコシティー、ガルシア=マルケスのマコンド、カプレラ=インファンテのハバナなどそのような条件のもとから生れた虚構の都市は数限りない。たとえばブエノスアイレスについてボルヘスは、長いヨーロッパ生活を終えて帰国したときの印象を「自伝風エッセー」の中でこう語っている。

ヨーロッパの数多くの都市――ジュネーヴ、チューリヒ、ニース、コルドバ、そしてリスボン――で生活し、数々の思い出に満たされて帰国したわたしは、故郷の町が大きく成長し、平屋根の低い建物が、地理学者や文学者がパンパと呼ぶ大草原の西方にどこまでものびる、大都市になっているのを目(ま)のあたりにして、仰天してしまった。それは帰郷などというものではなく、新たな発見であった。わたしはブエノスアイレスから長い間離れていたがゆえに、この都市を鋭く熱い意識で眺めることができたのだ。

もっとも村上春樹の場合はすでに指摘されているように、故郷さらには東京を含め日本を相対化するのに、実際の外国体験ではなく、アメリカ文化を通じてのシュミレーションによる相対化という独特のプロセスをもっていた。このことは彼の小説における都市を問題にする場合、考慮しなければならない。たとえば彼は地方出身者としてのフィッツジェラルドとニューヨークの関係に自分と東京のそれを重ねているようだし、またチャンドラーとロスアンジェルスの関係に特別な関心を示していることは、彼によるチャンドラー論「都市小説の成立と展開」や川本三郎との対談に明らかである。

彼によれば、「Go West」の終結点として荒野に作られたロスアンジェルスは、その成り立ちからしてきわめて幻想性か強い。チャンドラーはその「架空性の強い都市をより一層架空化し、そこに架空化したモラルの具現者を『私』“I ”という観念として(実にprivate eyeである)放り込むことによって、都市におけるリアリティーの原型を創りあげたのである」。村上春樹はここでも、「成人してから『ほぼ英国人』としてロス・アンジェルスに到着した時点で、自らの『架空化』をなさねばならなかった」チャンドラーにシンパシー以上のものを抱いているようだ。

このエッセーは村上春樹の作品の展開を考えるための多くの手掛りを与えてくれる。たとえば彼はダシール・ハメットとサンフランシスコの関係に触れ、ハメットの反権力と直結したモラルを素朴であるとする。そして彼の抗議は「パイオニアの論理が真の都市モラルにつなからなかったことに対する抗議でもある」と言い、「この街(サン・フランシスコ)においては大抵のものは金で手に入る。金で手に入らないものは誰も欲しがらない」というハメットの言葉を引用して次のように批評する。

ハメットの抗議は動機としては正しい。たしかに二十世紀初頭のサン・フランシスコ市政の腐敗ぶりには目を覆うものがある。しかしパイオニアリングを農本幻想を前面に押しだした国家論理の追求として捉えてみれば、その終結点におけるモラルの混乱が避け難いものであることは明らかである。それはまた都市小説としてのハメットの混乱である。

この言葉は村上春樹の「5月の海岸線」から『羊をめぐる冒険』、『ダンス・ダンス・ダンス』への移行を説明してはいないだろうか。つまり「5月の海岸線」の「僕」のあの叫びは、埋め立てという「農本幻想を前面に押しだした国家論理の追求」にともなうモラルの混乱に対する抗議だったのではないか。それが都市小説としての「5月の海岸線」の混乱を生み、それがあの奇妙さの原因だったのではないか。そのように見れば、村上春樹は『羊をめぐる冒険』でその混乱に秩序を与えようとしたと見ることができる。陽画から陰画への反転はそういう意味をもっていたのだ。それは彼にいわせれば「成熟」ということになる。

彼が北海道を出してきたのは、日本におけるパイオニアリングのプロセスがもっとも分かりやすい場所だからである。十二滝町の歴史はいわばそのメタファーといえる。そして彼は札幌を、「Go West」ならぬ「Go Nortth」の終着点にできた架空性の強い街としてロスアンジェルスやサンフランシスコと同質の場所とみなしている。彼にとってその架空性が東京以上であることはいうまでもない。しかし時代はハメットやチャンドラーをはるかに越えてしまっていることを彼は認識している。つまりもはや国家論理さえ古くなり、いまや支配しているのは高度資本主義というわけだ。「5月の海岸線」の埋め立て地、『羊をめぐる冒険』の札幌にすでに現れ始めていた平板な風景は、『ダンス・ダンス・ダンス』の基調となる風景を予告していたが、この作品においては高度資本主義社会の「再開発」の風景としてはっきりと意識的に描かれている。

つまり高度資本主義社会以前のあらゆるモラルが崩壊してしまった段階を、あるいはその段階から小説を書こうとするのだ。このことは主体の崩壊という現象を、「もう崩壊してしまったモノとしての図式を描いている」がゆえにチャンドラーを、また「その解体を前提として始める」がゆえにアーヴィングを評価するという彼の姿勢とパラレルな関係にあるといってよい。

しかし『ダンス・ダンス・ダンス』の虚構性は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のそれとは質的に異なっている。それはこの作品が三部作の延長上にあるからで、作者は作中で過去をすべて消し去ることはしなかった。彼は「ドルフィン・ホテル」に過去なるものの崩壊の記憶と痕跡をしのばせておくのだ。

いるかホテルは消えた。でもその影と気配はまだここに残っていた。僕はその存在を感じ取ることができた。いるかホテルはこの新しく巨大な『ドルフィン・ホテル』の中に潜んでいるのだ。目を閉じれば僕はその中に入っていくことができた。……それはここにあるのだ。誰も知らない。でもここにある。この場所が僕の結び目なのだ。

ここには三部作の記億が潜んでもいる。すなわち「僕」と「鼠」の二人の記憶である。それからこのホテルの作中における機能を考えると、ある興味深い事実に気づく。それはこのホテルの「僕」を様々なものとつなぐ「結び目」という役割が、三部作と「5月の海岸線」における埋め立て地のそれに等しいということである。このホテルは「こっちの世界」と「そちらの世界」のボーダーにあり、「僕は世界の端に立っているような気が」する。「それはホテルという形態をとった状況なの」であり、「いるかホテルに戻ることは、過去の影ともう一度相対することを意味しているの」である。ホテルを埋め立て地と置き換えてみれば明らかだろう。つまり波で洗われたかのような人骨を秘めたドルフィン・ホテルとはいるかホテルであると同時に、「砂浜」を含んだ埋め立てられた海岸の、形を変えた姿なのである。海豚は人、死者を海岸に運ぶ。ギリシア・ローマ神話を持ち出さなくても、「いるか」という名称に少なくとも海のイメージを感じ取ることは可能だろう。だからこそ「僕」はこのホテルで、『羊をめぐる冒険』の「砂浜」でと同様再生し、そのとき「失われたもののために泣き、まだ失われていないもののために泣いた」のだ。

村上春樹は先に引用したチャンドラー論の中で暗示的な指摘を行なっている。それはチャンドラーが「大衆化」しなければならなかった理由についてだ。彼はそれを「誇張された架空性のためである」とする。彼によれば、「仮説を仮説で検証する作業の行きつく先はシニシズムとセンチメンタリズム以外の何ものでもあり得ない。なぜなら都市とマーロウの架空性の質は常にデッド・ヒートの状態にあるからだ。そして仮説性が誇張されていけばいくほどそのシニシズムとセンチメンタリズムの質も誇張されていく」という。そしてそのプロセスを、是非はともかく「文学の大衆化」であるとする。これを彼自身の小説に当てはめることは容易だろう。彼はさらに、「都市小説はひとつの流動的なムーヴメント」、「仮説の仮説性をべつの仮説によって明確にすることで」あり、「それはそれぞれの作家の方法によって大衆化もし、非大衆化もする(純文学などというのは既に死語である)。しかし根本においては両者ともに都市幻想と国家論理の接点を見きわめるという作業に変りはない」という。これは彼の小説の「大衆性」に対するひとつの弁明と見ることができる。だがそれを判定することはきわめてむずかしい。『ダンス・ダンス・ダンス』の中で主人公は、高度資本主義社会における価値観に「馴染んでいるのではない。把握、認識しているだけなのだ。その間には決定的な差がある」という。確かにそれは決定的な差である。しかしあまりに微妙な差でもある。

カンガルー日和 / 村上 春樹
カンガルー日和
  • 著者:村上 春樹
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(252ページ)
  • 発売日:1986-10-15
  • ISBN-10:406183858X
  • ISBN-13:978-4061838581
内容紹介:
時間が作り出し、いつか時間が流し去っていく淡い哀しみと虚しさ。都会の片隅のささやかなメルヘンを、知的センチメンタリズムと繊細なまなざしで拾い上げるハルキ・ワールド。ここに収められた18のショート・ストーリーは、佐々木マキの素敵な絵と溶けあい、奇妙なやさしさで読む人を包みこむ。

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風の歌を聴け  / 村上 春樹
風の歌を聴け
  • 著者:村上 春樹
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(168ページ)
  • 発売日:2004-09-15
  • ISBN-10:4062748703
  • ISBN-13:978-4062748704
内容紹介:
一九七〇年の夏、海辺の街に帰省した“僕”は、友人の“鼠”とビールを飲み、介抱した女の子と親しくなって、退屈な時を送る。二人それぞれの愛の屈託をさりげなく受けとめてやるうちに、“僕”の夏はものうく、ほろ苦く過ぎさっていく。青春の一片を乾いた軽快なタッチで捉えた出色のデビュー作。群像新人賞受賞。

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1973年のピンボール  / 村上 春樹
1973年のピンボール
  • 著者:村上 春樹
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(192ページ)
  • 発売日:2004-11-16
  • ISBN-10:4062749114
  • ISBN-13:978-4062749114
内容紹介:
さようなら、3フリッパーのスペースシップ。さようなら、ジェイズ・バー。双子の姉妹との"僕"の日々。女の温もりに沈む"鼠"の渇き。やがて来る一つの季節の終り-デビュー作『風の歌を聴け』で爽やかに80年代の文学を拓いた旗手が、ほろ苦い青春を描く三部作のうち、大いなる予感に満ちた第二弾。

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羊をめぐる冒険  / 村上 春樹
羊をめぐる冒険
  • 著者:村上 春樹
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(268ページ)
  • 発売日:2004-11-15
  • ISBN-10:4062749122
  • ISBN-13:978-4062749121
内容紹介:
あなたのことは今でも好きよ、という言葉を残して妻が出て行った。その後広告コピーの仕事を通して、耳専門のモデルをしている二十一歳の女性が新しいガール・フレンドとなった。北海道に渡ったらしい"鼠"の手紙から、ある日羊をめぐる冒険行が始まる。新しい文学の扉をひらいた村上春樹の代表作長編。

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ダンス・ダンス・ダンス / 村上 春樹
ダンス・ダンス・ダンス
  • 著者:村上 春樹
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(424ページ)
  • 発売日:2004-10-15
  • ISBN-10:4062749041
  • ISBN-13:978-4062749046

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