読書日記

中山信如編著・東京古書組合後援『古本屋的! 東京古本屋大全』(本の雑誌社)、ジョルジュ=ヴィクトール・ルグロ『ファーブル伝』(奥本大三郎訳 集英社)

  • 2022/02/04

古書店の世界、ファーブルの決定的な評伝

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東京都古書籍商業協同組合から依頼されて『東京古書組合百年史』のイントロを書いたのが昨年の今頃。百枚の約束が三百枚ほどに膨れ上がり、収縮するのに苦労したが、その執筆過程で古書店への供給を支えている流通システムがよくわかった。

まず「市会」とか「市場」と呼ばれる業者間のセリ市がある。古書店が客から一括買入した古本は普通この業者間の交換セリ市に回される。これを介して各古書店は専門外の本を売却し、専門の本を仕入れるのである。古書組合はこの相互扶助的再流通マーケットのためにあるといっても過言でない。もうひとつは、いわゆるタテバ(廃品回収業者が持ち込んだ紙製品を買い取る製紙原料問屋)巡りの古書店主が回収してきた本や雑誌をセリで再分配するという供給システム。

東京都古書籍商業協同組合の機関紙である『古書月報』に寄せられた古書店主のエッセイやインタビューはこの二つの供給源を主題にしたものが多い。『東京古書組合百年史』の編集担当としてこれらの証言のふるい落としを任された映画関係専門古書店「稲垣書店」店主中山信如氏はどの記事もあまりに面白いので結局セレクトを諦め、「見よ、古本屋の豊穣なる世界―『古書月報』寄稿傑作選寸評集」と題した要約・寸評にとどめたが、しかし、それではあまりにもったいないということになり、これらをまとめて一巻とすることとした。中山信如編著・東京古書組合後援『古本屋的! 東京古本屋大全』(本の雑誌社 二七〇〇円+税)がそれである。編著者が三河島の古書店主だけあって東京東部の古書店主のオーラル・ヒストリーや対談が多く集められているのが特徴で、私のイントロを含めて神田神保町中心史観の強い『東京古書組合百年史』をうまく補うかたちになっている。

まず劈頭の「東京古書組合百年史外伝 岡島書店・岡島秀夫氏インタビュー『下町古本屋の50年』」が面白い。東部の商いの主力がタテバ関連だったことがよくわかるからだ。

その時は東部の人たちは儲かっていたんですか。

岡島 儲かってたよ! だって週に三日くらいキャバレー行ってたもん。(中略)古紙の高い時代。鶯谷行ったら古本屋が十人、チリ交が十人くらいでみんなで酒飲んでたよ。

岡島 (中略)下町の古本屋は新刊屋になることがステータスだったんだ。

もう一つ、タテバ巡りのエピソードが語られている対談が文献書院・山田昌男氏と平野書店・平野信一氏の思い出話に司会の司書房・中野照司氏が割り込んで月報記事にした「回顧放談 『オレにも言わせろ!―死んでからじゃ、何も聞けないぞ―』」。昭和二十三年に中学三年で古書業界に入った山田氏は独立後にタテバ巡りを小型三輪車で始め、やがて四十五万円のダットサンに切り替える。「他店は自転車でリヤカーを引っ張ってやってた時代だから、ぼくはあっちこっちの市場へ出すことができた」。しかし、タテバ回りは他の古書店主から馬鹿にされるので、一念発起して俳句専門店になることを決意。「たまたまぶち当たった俳句の本の初めてのやつがこれなんだよ。(中略)本を開いた最初にね『水枕ガバリと寒い海がある』とある。これ、西東三鬼の『夜の桃』(七洋社 昭和二十三年)の第一句なんだけど、これでもってね、ハッとさせられた。現代風の俳句に初めて触れたと思った」。短詩形の専門店・文献書院はこうして誕生したのである。

伝説の詩歌専門店「中村書店」へのオマージュ・エッセイや、キリスト教専門店・友愛書房店主でありながらむしろ市会の主として活躍した萱沼肇氏についての元店員たちの回想座談会、また大正・昭和期の名店主たちの思い出を綴った夏目書房・夏目順氏の「回想 想いいずるままに」など正統的な古書店史に役立つ証言があるかと思えば、近年、隆盛を極めるオンライン書店主たちや女性店主たちの座談会、プロ野球やクラシックなどがテーマの雑談会があるといった具合で、古本好きでもお腹いっぱいになるほど盛りだくさんな一冊だが、未収録のエッセイや対談・座談会も残っているということなので続編を期待しよう。

古本屋的! 東京古本屋大全 / 中山信如
古本屋的! 東京古本屋大全
  • 著者:中山信如
  • 出版社:本の雑誌社
  • 装丁:単行本(ソフトカバー)(440ページ)
  • 発売日:2021-11-26
  • ISBN-10:4860114663
  • ISBN-13:978-4860114664
内容紹介:
「古書月報」の過去五十年分、三百冊の中から面白い記事、役に立つ情報百二十本を選りすぐり、再編集した「古書月報傑作選」。

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×月×日

「文藝春秋」で菊池寛伝の連載を始めてあらためて気づいたことがある。文化資本は多くても経済資本の少ない下層中産階級の出身者が高等教育へアクセスする唯一の道は師範学校だったという事実だが、じつは十九世紀のフランスでも同じで、『昆虫記』のファーブルも師範学校を出て小学校教員になった一人。ジョルジュ=ヴィクトール・ルグロ『ファーブル伝』(奥本大三郎訳 集英社 四二〇〇円+税)は『昆虫記』にほれ込んだ医師出身の国会議員がほとんど忘れられたファーブルの押しかけ弟子となり、書簡などの資料を集め、存命中の関係者にインタビューして書き上げた決定的な評伝で、前半が伝記で後半が『昆虫記』に表されたファーブルの思考の解読というかたちを取っている。

一八二三年に南仏ルーエルグ地方の小村サン=レオンで生まれたファーブルはロデーズの中学校に入学したが、バカロレア準備級には進めず中退、さまざまな賃仕事を経験した後、学問への情熱抑えがたくアヴィニョンの師範学校の給費生試験に合格して小学校上級教員免状を取得、十九歳でカルパントラの中等学校付属小学校で教壇に立つ。

しかし、この時代、小学校教員は最低賃金の職業で、家庭を構えたファーブルは苦しい生活を続けたが、「人に教えながら自分も絶えず学ぶということの喜びによって」苦痛を耐え忍んだ。独学で物理学、化学、数学を学び、生徒に教えることで自己形成を遂げたファーブルは弟にこう書き送っている。「これ[知性]なしでも、もちろん、普通の生活はできる。しかしそうではなくて、これだけが尊敬に値するまっとうな人間を作ってくれるのだ」。この「教えながら学ぶ」独学法は後にファーブルが教科書を書くときに役に立つ。ファーブルは生前、教科書の著者として知られていたのだ。

こうした刻苦勉励のおかげで、ファーブルは数学と物理学のバカロレアと学士号も取得し、コルシカのアジャクシオ国立中学校の物理学教師として就職したが、このアジャクシオへの赴任が偉大なる博物学者を生むきっかけとなる。コルシカの豊饒な自然に触れて博物学に目覚め、貝類や軟体動物や植物の研究に没頭。一八五三年にはアヴィニョン高等中学に転勤し、トゥールーズ大学で博物学の学士号を取得する。しかし、なぜか理学博士の学位はとらず、教授資格(アグレガシオン)も取得しなかったため、大学教員への道は断たれ、最終職歴は高等中学物理学助教授にとどまる。ところが、一八六八年に転機が訪れる。カトリックから教育権を奪って公教育を促進しようとした文部大臣ヴィクトール・デュリュイがファーブルの教科書に感心し、皇太子の教育係候補としてテュイルリー宮殿に招いたのだ。しかし、結局、計画は実現せず、大臣の厚遇はファーブルにとってかえってあだとなる。リセの同僚たちの嫉妬を買って孤立し、デュリュイが失脚するとカトリックの迫害に遭い、借家を追い出されたばかりか、アヴィニョン高等中学も去らなければならなくなったからだ。だが、運命はあざなえる縄の如しで、この転居をきっかけに、ファーブルは小村セリニャンの森の中の一軒家を買い、「荒地(アルマス)」と命名したこの自宅兼研究所に引きこもって博物学の研究を続けるうちに昆虫の生態研究に目覚め、ついに『昆虫記』の執筆に取り掛かったのである。

先入観を排した観察↑広い視野の比較検討↑突っ込んだ分析という実証主義(ポジティヴィスム)の理想に生きたファーブルの感動的な伝記の『完訳 ファーブル昆虫記』の訳者による豊富な注付き翻訳で、とても読みやすい。

ファーブル伝 / ジョルジュ=ヴィクトール・ルグロ
ファーブル伝
  • 著者:ジョルジュ=ヴィクトール・ルグロ
  • 翻訳:奥本 大三郎
  • 出版社:集英社
  • 装丁:単行本(480ページ)
  • 発売日:2021-05-26
  • ISBN-10:4087735133
  • ISBN-13:978-4087735130
内容紹介:
博物学の巨人ファーブル。その孤高の生涯を、弟子のルグロ博士が詳細にたどる。奥本大三郎訳〈ファーブル評伝の決定版〉!

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