解説

『虫のゐどころ』(新潮社)

  • 2024/03/27
虫のゐどころ / 奥本 大三郎
虫のゐどころ
  • 著者:奥本 大三郎
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(302ページ)
  • 発売日:1995-06-01
  • ISBN-10:4101363110
  • ISBN-13:978-4101363110
内容紹介:
奥本先生は、名高い虫のエレクターにして、仏文学者。世の中の大抵のことが気に入らず、今日も虫のゐどこらがよろしくない。大学教授、三日やったら辞めたくなる。われわれの文化はラーメン程度…。馬鹿げた入試制度に怒り、自然破壊を嘆き、上品な言葉遣いを懐かしむ。ファーブル『昆虫記』の訳者が、大学から世相、虫、文学、食まで、縦横無尽に綴った、大人のためのエッセイ集。

上品なわがまま

かの建築探偵藤森照信氏をして千駄木の中央情報局と舌を巻かせた「谷根千」工房昨今の調査によれば、千駄木に住いせる仏語教師オクモト・ダイサブロー氏は、夫人、令嬢の評判は近隣にいたって良ろしいが、当人はなかなか気むずかしく、虫のいどころが悪いときた日は、授業中にチューインガムを嚙む女子学生のそばへ行って「出しなさい」といってみたり、懐手の男子学生のそばへ行って「出しなさい」と言ったりするが、この学生はじつは片手がない。人を傷つけることに敏感なセンセーは弱々しく笑って「僕だってない知恵を出して授業をしているのだから、君もない手でも出してみたまえ」と負け惜しみをいったそうである。

学生の出来が悪いのに嫌気がさして「大学ハやめる積ダ」とか「明日は天長節で休みです。うれしい」などと友人に書き送り、晴れて大学をやめた日にはギーコギーコと油の切れた古自転車に乗って不忍池へ向い、ああこの蓮池の泥の下には太々とした蓮根が大量にあるはずだ、そういえばあの出来の悪い学生どもが、出会うという動詞「ランコントレ」をいつも「レンコントレ」と発音する、と思い出して「蓮根取れ」と何度もつぶやいてみたりする。

そうだ、帰りに池を回って谷中清水町の友人五葉橋口貢の所へ寄ってみよう。この前の自作の絵葉書きに「素人くさい処が好い所です。褒めなければいけません」と書いてやってそれ切りだ。それとも書斎の無聊(ぶりょう)を慰める習字に使う硯でも買いに行こうか、近くにはいい硯屋と筆屋がある。ギーコギーコ……。

奥本大三郎『虫のゐどころ』(新潮文庫)を読んでいると、九十年前の明治三十六年から同じ千駄木町の五十七番地に住んでいた漱石夏目金之助のことがしきりに思い出されてならない。だんだん話がごっちゃになってくる。どちらも登校拒否に近い外国語および文学の教師である。漢詩や俳句もつくれば、手すさみにというか「作業療法的」に書や画をかく。胃弱である。漱石は「今の世に神経衰弱に罹(かか)らぬ奴は金持ちの魯鈍(ろどん)ものか、無教育の無良心の徒(やから)か左(さ)らずば、二十世紀の軽薄に満足するひやうろく玉に候」といった。おまけに愛妻家(恐妻家?)で、なんたってひげのお顔が似ている。

といったら奥本さんは「いやいや、月とスッポンです」と謙遜された。「でも似てるといわれませんか」となおも追及すると、「娘が千円札を見て、あっお父がいる、といいました」と恥ずかしそうに笑った。明治の文人(インテリ)独特の顔というのか、昨今、奥本さんほど立派なお顔の人はなかなかいない。

久しぶりに本書を読み直し、私はあちこちでクックと笑い、そのあっさりしたユーモアと上品なわがままに酔った。

「大学の先生が勤まらんようなら、もう何にもできんぞ」とおどかされ、二時間もかけて学校にたどりつく。「一息ついて、さて、何をしにこんな遠い山の上の大学まで来たのか。一瞬ふっと解らなくなるような気さえする」。授業を工夫して往年のフランス名画を見せたって「べつにぃー」だし。唯一の質問は「テストはどうやるんですか」。学生たちはグーグー寝るか、サワサワ雑談するかである。私も大学で非常勤で教えたことがあって、この「処置なし!」はよく分る。

共通一次以降、学生の質が確実に落ちているのは、一月のその試験を期に「ぷっつん」になってしまうからではないか。

この頃、私は新宿の街などを歩いていて、ふと考えることがある。夕焼の西の空に、突然 GAME OVER という巨大な文字が浮かび出し、次の瞬間、何もかもがパッと消えてしまうのではないかと。

本書は自然の中に育ち、教養を積んだ大人の男の、「ごまめの歯ぎしり」のようなものであるが、あちこちに自然や社会への深い洞察と昨今の世相への怖いような予言がある。

大切なのは自然に対する感受性であり、ことばに対する感覚、そしてそれと切り離せない、他人に対する配慮であって、これをしっかり身につければ、あとはしぜんに育ってゆくと、私は思うのであるが。

そういえば奥本さんと何人かで四国から九州へと旅をしたことがある。こんなに楽しかったことはない。ふつう同業の方々から本や芝居や音楽や絵の話で教えられることは多いが、奥本さんはそれに加え、車窓に見える樹の名が分り、どの花にどの昆虫が寄るかを教えてくれ、鳥の鳴声を聞き分けられる。山にどんな樹を植えればいいか、川に海にどんな魚が棲むかまでご存知だ。

東京の町中に育った私には、奥本さんが羨やましく、まるでファーブル『昆虫記』の文体が理解できなかったアナトール・フランスみたいな気分になって、少し泣けてくる。

奥本さんは「他人に対する配慮」にも満ちた方である。私たちの地域雑誌「谷中・根津・千駄木」にご登場頂いたのを期に一夕、清談の席をもうけた。そうしたら、おなかの大きい仲間には「あなたはこれ以上飲んではいけません」と気づかい、もう一人が見えなくなると、「気分でも悪いのかしら」と本気でご心配下さった。やさしいのである。

「虫のゐどころ」が悪いのは、人間を踏みはずした粗暴で下種(げす)で失敬な連中に対してだけである。私は奥本さんから酒の肴にこんな話を聞くのが好きだ。

「この前、若い編集者に原稿を渡したら、その場で読んで「よくできました」というんですよ。腹立つから学校のサクラのはんこあるでしょ。あれを買ってきてそこに押せといいましたよ」

「教科書に載るという僕の文章が問題になりましてね。「採られる虫はたまたま交通事故に遭ったようなものだ」と書いたら「交通遺児への配慮が足りない」というんです。もう一ヵ所は「イナゴが佃煮にするほどいる」と書いたらば「イナゴを佃煮にするのは通常の方法とは思えない」という解釈ですよ。やれやれ」

世の中、バカが多くて疲れません?

奥本さんはうまいもの好きでもある。「谷根千」三十五号で読者の推薦するおいしいお店特集をやって、「すべて投稿者の百人百様の好みで編集部の責任にあらず」とただし書きをつけておいたところ、奥本さんはこれを参考に相当、町を回られたらしく、あとで、「責任とらないと書いておいて本当に良かったねェー」とニヤニヤされた。すみません。大体、氏も私も住む庶民の町は、外食などする町ではないのである。

去年の大晦日、年のうちにし残したことはもうみんなあきらめて、二階のヴェランダから雑草が茶色に枯れ果てた庭を見下ろすと、レモンの木に実が生(な)っている。青いのと、既に黄色いのと、とりまぜて五、六個。自分の植えた木である。東京でもレモンが生るのか――私は急になんともいえぬ幸福な気分になった。

読む方も幸福にしてくれる絶妙な書き出しである。

それから自転車で家から近い谷中銀座の貝類専門の店に行き、牡蠣(かき)を一ダース買ってきた。白ワインを冷やし、「生牡蠣に自分の庭の檸檬(レモン)の汁をかけて食ふ、何と言ふ贅沢だらう――家の庭にはオランジュリーがありますからな」と、誰か昔の作家の口まねをしながら、食べてしまった。

そうだそうだ、外食よりよっぽどいい。こういう生活の細部を大切にした随筆は、仕事に疲れた私には最上の慰めである。

また旅行のことを思い出した。奥本さんは旅において案外、貪欲に眼玉を動かし、口を動かす。もしかすると「少くとも今日もまた起きて歩ける、と考えて感謝するのは、子供のとき大病をして永い間寝たきりであった私の本当の気持である」という生きることへの切実感なのかとも思う。

見るべきものを見ようとするその遠慮のなさはいっそ気持の良いもので、同行する私たちは余慶にあずかる。そのときも、大分空港から帰ろうという段になって奥本さんが、

「せっかく九州へ来たのだからうまい魚が食べたい」

といい出した。一行においては新入社員Aといったところの私が走り回って国東(くにさき)半島の料理旅館の昼食を予約し、同じく新入社員Bの関川夏央が運転手を勤めて一行、無事そこへついた。

料理は見たことのないようなすばらしいものだった。カニ、タコのゆでたの、貝と赤身の刺身、焼魚に煮魚、カラ揚げ、酢のもの……窓の外には青い海。なんてゼイタクだ。ところが奥本さんはまだ、

「白身の魚が食べたい」

というのである。関川さんと私は顔を見合わせたが、旅館の美しい娘さんが間髪入れず「それなら舟を見てきます」といったのには驚いた。

ややあって、私たちは見事なかれいの刺身にありつくことになった。刺身の一ひらを箸でつまんでうれしそうに口に運ぶ奥本さんを見て、私は「船へ乗って月を見て美人の御酌でビールが飲みたい」といった漱石をまた思い出した。なんてのんきなワガママだろう。

今の世の中でもっとも有り難いものは、きれいな水と静けさと上品な言葉づかいであると私はいつも思っている。しかしこの三つが全部いっぺんにそろうことは、めったにない。

いまの東京ではこのくらいのハタ迷惑でない、ささやかなワガママさえ望めない。かつて正岡子規が千駄木にも近い根岸に暮していたころは、上野の森で鳴くホトトギスが聞こえた。目前には音無川の清流があった。枕もとの硯箱に蛍がとまってかすかに灯をともす。隣人が井戸の釣瓶で水を汲む音が聞こえるほど静かだった。あるとき、「正岡子規だってペニシリンがあれば僕みたいに癒(なお)ったのだけどなあ」とおっしゃる。「病牀(びょうしょう)六尺」は奥本さんには他人事(ひとごと)ではなかったのだ、とふいに鼻がつまった。

ほかにも千駄木の地名の由来やら、クワガタ、スズムシの名所だった道灌山のことや、谷中墓地に墓のある植物学者田中芳男のことやら、本書の土地にまつわる話も私を喜ばせるのだけど、奥本さんの語り口には半可通のウンチクめいたところがいささかもない。岩波版の『昆虫記』の訳者、林達夫氏への言及も味わい深いし、辰野隆(ゆたか)氏のルナールの「青蜥蝎」の覚え違いについても、あたたかい批評にはうならせられる。

ところで昔、私が教わった大嫌いな句に、「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」というのがある。「道を極めるほどに初心に立ち戻らざるを得ない」というならよいけれど、通常「エラクなればなるほどイバッテルと思われないよう一応、腰を低くしておればまちがいはない」といった処世術の人が多い。そういう人に限って陰で威張ったり弱い者いじめをする。

奥本さんはそれとまったく逆で、いつも昂然としてお世辞をいわないのはもちろん、下種な連中を許さないから、ときとして誤解されるかもしれないけれど、この「わがままな品のよさ」は私の崇拝する所である。底にある誠意は本書を貫通している。

【この解説が収録されている書籍】
深夜快読 / 森 まゆみ
深夜快読
  • 著者:森 まゆみ
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:単行本(269ページ)
  • 発売日:1998-05-01
  • ISBN-10:4480816046
  • ISBN-13:978-4480816047
内容紹介:
本の中の人物に憧れ、本を読んで世界を旅する。心弱く落ち込むときも、本のおかげで立ち直った…。家事が片付き、子どもたちが寝静まると、私の時間。至福の時を過ごした本の書評を編む。

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虫のゐどころ / 奥本 大三郎
虫のゐどころ
  • 著者:奥本 大三郎
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(302ページ)
  • 発売日:1995-06-01
  • ISBN-10:4101363110
  • ISBN-13:978-4101363110
内容紹介:
奥本先生は、名高い虫のエレクターにして、仏文学者。世の中の大抵のことが気に入らず、今日も虫のゐどこらがよろしくない。大学教授、三日やったら辞めたくなる。われわれの文化はラーメン程度…。馬鹿げた入試制度に怒り、自然破壊を嘆き、上品な言葉遣いを懐かしむ。ファーブル『昆虫記』の訳者が、大学から世相、虫、文学、食まで、縦横無尽に綴った、大人のためのエッセイ集。

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