書評

『村上春樹は、むずかしい』(岩波書店)

  • 2018/07/13
村上春樹は、むずかしい / 加藤 典洋
村上春樹は、むずかしい
  • 著者:加藤 典洋
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:新書(256ページ)
  • 発売日:2015-12-19
  • ISBN:4004315751
内容紹介:
はたして村上文学は、大衆的な人気に支えられる文学にとどまるものなのか。文学的達成があるとすれば、その真価とはなにか-「わかりにくい」村上春樹、「むずかしい」村上春樹、誰にも理解されていない村上春樹の文学像について、全作品を詳細に読み解いてきた著者ならではの視座から、その核心を提示する。

正義がはっきりしない世界への転換

本格的な批評の書である。村上春樹の長編も短編も博物館の陳列のように、ラベルを貼って並べて解明される。私が作者本人なら生きた心地もしない。

デビュー作『風の歌を聴け』は日本文学で初めて《自覚的に「肯定的なことを肯定する」作品》である。誰もが否定性に浸って近代の物語を紡いでいたとき、気持ちよくてなにが悪い、と言ってのけたのだ。

ポップなこの身軽さは、現実から距離を置く「デタッチメント」とみなされた。話はそう簡単でない、初期短編三部作をみよ、と加藤氏は言う。「中国行きのスロウ・ボート」は戦争の罪責感、「貧乏な叔母さんの話」はプロレタリア、「ニューヨーク炭鉱の悲劇」は内ゲバの死者を暗示している。ポストモダンな状況のなかで、かつての否定性をどう引き受けるかという、新しい課題との格闘なのだ。

時代が変わりモラルが失効したあと、頼りはマクシム(自分だけのルール)である。ゆえに主人公は孤立し内閉する。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、現実/内面を、交わらず並行する世界として描く。結末で主人公は、内面世界から脱出しなさいと勧められると、自分の生み出したこの世界に責任がある、自分はここに留(とど)まる、と応じる。

加藤氏は、村上の作品をその特徴から、前期/中期/後期、隠喩/換喩、他界/異界、否定性/内閉性、……と重層的に区分する。そしてとりわけ大きな転換を一九九五年の、阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件にみる。村上は海外生活を切り上げて帰国、故郷の芦屋で朗読会を行ない、事件の被害者やオウム信徒の聴き取りを出版した。それを境に、マクシムに閉じこもる人物が怪物として描かれるいっぽう、市井のふつうの人物に重要な役割が与えられる。

「かえるくん、東京を救う」はさえない課長補佐が主人公の短編だ。悪者みみずくんとの対決を控え、かえるくんが彼に応援を頼みに来る。あなたのような人でなければダメなんです。戦い終えた傷だらけのかえるくんは、どうにか引き分けに持ち込めました、と報告にくる。そして見るまにかえるくんは変形し、たくさんの蛆虫(うじむし)みたいなものになってしまうのである。

何が正義かはっきりしないのは、『1Q84』も同じだ。主人公の青豆は、悪の化身の男どもを抹殺する刺客だが、悪人のはずのカルト教団のリーダーは《実際に登場すると、それとは大いに異なる実像を明らかにする》。BOOK3でもこの謎は解消しない。本当はBOOK4が書かれるはずだったのでは。《「正義」によって殺人を犯した者は……「正義」から離れたあと、どのように生きることができるのか。……それに答えるところまで行かなければ、……この小説を書き終えたことにはならない》と、加藤氏は言う。

このように注文を付けつつ、加藤氏の筆致は総じて敬意に満ち温かい。それは日本でも、中国韓国でも、文学の玄人筋になぜか無視されがちな村上春樹の文学を、《シンプルに、……日本の近現代の文学の伝統のうえに位置づけることが、いまもっともチャレンジングな、時宜に適した批評的企てとなる》と、確信しているからである。

村上春樹は自分サイズの読みやすい文体で、大衆的な人気をえている。けれどもその作品にはたくさんの引き出しがあり、ほんとうに読解するのはむずかしい。そう評者も思うので、加藤氏の試みを高く評価する。たった一人の批評家のためだけにでも、作者はなお挑戦を続けられるはずだからだ。
村上春樹は、むずかしい / 加藤 典洋
村上春樹は、むずかしい
  • 著者:加藤 典洋
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:新書(256ページ)
  • 発売日:2015-12-19
  • ISBN:4004315751
内容紹介:
はたして村上文学は、大衆的な人気に支えられる文学にとどまるものなのか。文学的達成があるとすれば、その真価とはなにか-「わかりにくい」村上春樹、「むずかしい」村上春樹、誰にも理解されていない村上春樹の文学像について、全作品を詳細に読み解いてきた著者ならではの視座から、その核心を提示する。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2016年2月28日

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