解説
『私の幸福論』(筑摩書房)
不幸にたえる術としての幸福論
福田恆存は一九九四年十一月二十日に亡くなった。オウム真理教の人びとによる地下鉄サリン事件も知らず、「援助交際」なる少女売買春に対して世の大人たちがお手上げ状態だったことも知らず、見開きに「愉悦」という言葉が三回も出て来るような空疎でガサツな不倫小説が一大ベストセラーになったということも知らずに亡くなった。
八十歳を過ぎて自分の生まれ育った国の醜態を見せつけられること、そして自分が長年の間、営々として書きつづって来たことがほとんど無効にされたことを思い知らされるのは、さぞかし辛いことであろう。このような醜態がさらけ出されぬうちに亡くなったのは、まだしも幸運だったかもしれない。
福田恆存当人にとっては幸運だったが、私、いや私たちにとっては不運なことである。日本の最良の知性――という言葉は私らしくないかもしれない、もっと自分になじんだ平易な言葉で言おう――懐しく大きな「よりどころ」を失ってしまったのだ。
福田恆存はこの『私の幸福論』と同じ時期(一九五五年前後)に、日本人の国民性についてこんなことを書いている、
日本人の道徳感の根底は美感であります。
私は、日本人のさういふ美感が、明治以来、徐々に荒されていくのを残念におもふと同時に、またそれだけが頼るべき唯一のものであり、再出発のための最低の段階であると信じてをります。
日本人に「罪悪」の問題を識別する抽象化の能力が欠けていることはたしかであり、それが調和を愛する感覚的美感によつて助長されてゐることもまた疑ひの余地のないところですが、さればといつて、これを土台としないかぎり、私たちは動きがとれないのです。
日本にはキリスト教的な神(超自然的な絶対者としての神)は伝統的に存在しなかった。しかし、その代わりにたくましくデリケートな「美感」があったというのだ。
ここで詳しく例証していくゆとりはないので結論だけ書くが、私はこの指摘にまったく同感である。少なくとも私自身に関しては一〇〇パーセント真実である。私のモラリズム、価値判断の基準、好悪の感情などの大もとは「美感」にある。知識でも論理でも信仰でもなく、究極的には自分の「美感」を頼りにして生きている。
ものごとの美醜に関して無神経な思想・言論・主張には、ほとんど心を動かされない。「理屈は確かにそうだろうが、どこかおかしい。何か貧しい。まちがっている」と思う。
私ひとり生きていくにはこれでいいのだ。「美感」さえ確かならば、それほど大きくまちがえずに生きていける。混乱せずに暮らしていける。しかし、「美感」ばかりというのは、人を説得するにはあまりにもはかなく弱々しいものである。コラムニストとしての私は、いつもそういう限界を感じる。
福田恆存の凄いところは、繊細強靭な「美感」のうえに明晰な論理性が備わっているところである。私がぼんやりと感じていることに、明確な言葉を与えてくれる。私が「こういうのは気味が悪い」「こういうことは嫌いだ」としか書けないことに、論理の道筋を示してくれる。そして……おうおうにして、私の痛いところをついてくれる。懐しく、大きな「よりどころ」であると同時に、たたかうに足る「こわい敵」である。
さて。私は疑問に思う。
『私の幸福論』というタイトル、説教調と言えなくもない真面目な文体……。人生論の嫌いな私だ。もし私が福田恆存の名を知らなかったとしたら……この本を手にする気も起きなかったのではないだろうか。
特別に難しい言葉は使っていないが、決して軽く読み流せるものではない。いや、逆に、赤線でマークしてでも頭の中にしっかりと叩き込んでおきたくなるようなくだりがぎっしりと詰まっている。
せっかちな人間も福田恆存を読む時は、息をたっぷりと吸って、高い山を一歩一歩、よく足を踏みしめるような気持で読むことがかんじんだ。福田恆存は何かを説明する時に、こけおどし的な外来語や「なんとか症候群」「なんとか族」といったような表現は決して使わない。たぶん、そういうマスコミ受けするキーワード作りや括り方は、人びとをごく浅い所で「わかったような気」にさせるから厭なのだろう。福田恆存は読者を甘やかさない。考えさせる。売文業者としての福田恆存は無愛想で不親切である。しかし思索家としての福田恆存は誠実で親切なのである。
冒頭たちまちにして、これが女性誌おなじみのナミの人生論ではないことに気がつくだろう。どこがといって、最初にまず「美醜」について語っているところだ。女性向けの人生論で、いきなり外見の話を持ち出し、しかも「美醜によって人の値打ちを計るのは残酷かも知れませんが、美醜によって、好いたり嫌ったりするという事実は、さらに残酷であり、しかもどうしようもない現実であります」「醜く生れたものが美人同様のあつかいを世間に望んではいけないということです」「現実の世界では人間は不平等です。悪いといおうが、いけないといおうが、それが事実なのです」ときびしいリアリズムを展開しているのだ。
これだけで、甘やかされたい(そしてTVや新聞や雑誌などで甘やかされ慣れている)読者は、大いに気を悪くし、こういう時に都合のいいレッテル(=「差別主義者」)を貼って、憤然としてページを閉じてしまうだろう。勿体ないことだ。そのあとにこそ福田恆存の真骨頂があるというのに。
ところで、私が最も興味深く読んだのは、「教養について」の章である。
オウム事件といい、「援助交際」といい、例のベストセラーといい、今の日本の不幸は「知識(あるいは情報)はあっても教養がない」――これに尽きるような気がする。
エリオットは「文化とは生きかたである」といっております。一民族、一時代には、それ自身特有の生きかたがあり、その積み重ねの項上に、いわゆる文化史的知識があるのです。私たちが学校や読書によって知りうるのは、その部分だけです。そして、その知識が私たちに役だつとすれば、それを学ぶ私たちの側に私たち特有の文化があるときだけであります。私たちの文化によって培われた教養を私たちがもっているときにのみ、知識がはじめて生きてくるのです。そのときだけ、知識が教養のうちにとりいれられるのです。教育がはじめて教養とかかわるのです。
私は長い間「教養」という言葉になじめなかった。世間ではどうもこの言葉を「物識り」とか「おけいこごとに熱心な人」とかのニュアンスで使っている様子だったからだ。私は福田恆存によって初めて「教養」という言葉を美しいものとして感じたのだ。
福田恆存が幸福について語った言葉で、私がハッと胸をつかれ、忘れられないのは、
唯一のあるべき幸福論は、幸福を獲得する方法を教へるものではなく、また幸福のすがたを描き、その図柄について語ることでもなく、不幸にたへる術を伝授するものであるはずだ。
というものである。これは『否定の精神』という評論の中の一節で、『私の幸福論』の中には出て来ないのだが、しかし、『私の幸福論』全編は、これ、最もラジカル(根源的)な最強の幸福論――不幸にたえる術としての幸福論を伝授するものである。
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