書評

『雪沼とその周辺』(新潮社)

  • 2019/04/19
雪沼とその周辺 / 堀江 敏幸
雪沼とその周辺
  • 著者:堀江 敏幸
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(206ページ)
  • 発売日:2007-07-30
  • ISBN-10:4101294720
  • ISBN-13:978-4101294728
内容紹介:
小さなレコード店や製函工場で、時代の波に取り残されてなお、使い慣れた旧式の道具たちと血を通わすようにして生きる雪沼の人々。廃業の日、無人のボウリング場にひょっこり現れたカップルに… もっと読む
小さなレコード店や製函工場で、時代の波に取り残されてなお、使い慣れた旧式の道具たちと血を通わすようにして生きる雪沼の人々。廃業の日、無人のボウリング場にひょっこり現れたカップルに、最後のゲームをプレゼントしようと思い立つ店主を描く佳品「スタンス・ドット」をはじめ、山あいの寂びた町の日々の移ろいのなかに、それぞれの人生の甘苦を映しだす川端賞・谷崎賞受賞の傑作連作小説。
新潟にある尺玉発祥の地で奉納花火を見たことがある。見物場所の神社の境内からさほど離れていない場所で打ち上げるので、二尺、三尺といわず、今や都会の花火大会でも珍しくはない一尺玉ですら夜空いっぱいに広がるものだから、見物人はみな境内にゴザを敷き寝転がっており、花火が打ち上げられるたび顔の真上まで落ちてくる小さな火の滴をかすかに首を振ってよけていたりするのだった。そこで初老の男性コンビと出会った。

二人は打ち上げられる花火のいちいちに感想を交わし合っていたのだが、やがて隣りにいるわたしたちに話しかけ東京からやってきたことを知ると「もっと華やかな花火大会があるだろうに、なにもこんな田舎にわざわざ」と謙遜してみせながらも、表情はかけっこを褒められた少年のように得意そうで恥ずかしそうで、すすめられるままに、するめやらカップ酒やらをご馳走になりながら、花火のみどころをレクチャーされつつ、なんとなくわかってきたことなのだけれど、彼らは小学校高学年の頃から毎年二人でこの花火を見続けているのだという。それぞれ家族がありながら、でも、この花火は二人でないと駄目なのだと語気を強めるのだった。

北にある山あいの静かな町、雪沼とその周辺。町営スキー場があり、尾名川が流れ、権現山が近くに迫り、五〇メートルにも満たないこぢんまりした商店街がある、ごく平凡な田舎町を舞台にした堀江敏幸さんのこの連作短篇集に入っている、香月さんの話(「緩斜面」)を読んで、わたしは花火大会のあの二人を思い出した。

職を失った香月さんに、幼なじみの小木曾さんが、遠い親戚がやっている消火器販売会社を紹介してくれる。やがて小木曾さんは急死。墓参りの帰りに寄った小木曾さん宅で、香月さんはその中学二年生になる息子から、自分と小木曾さんが少年時代に作った和凧が見つかったと告げられる。デザインの天分に恵まれた小木曾さんが丸や四角を組み合わせた文様を描いた、香月さん手製の角凧。上昇気流を利用できるポイントめがけて、凧を手に緩斜面を駆け下りる二人。その思い出は香月さんからまた別の記憶を引き出す。大学時代、香月さんの下宿に遊びに来た小木曾さん。暴風雨で外に出られない二人が目撃するある光景――。最後の一文を読み終えた瞬間、香月さんと小木曾さんは、わたしの中に、花火大会の二人と同じくらいリアルに棲みついてしまったのである。いや、彼らばかりではない。雪沼という土地でささやかな生活を営む、作者から「さん」づけで大切に物語られる全ての登場人物が、心の奥深くに棲みついてしまったのだ。この連作短篇集を読むということは、そうした体験をさすのだと、わたしは思う。

廃業前夜のボウリング場で最後の一投にのぞむ店主がいる(「スタンス・ドット」)。フランス料理店と料理教室を開いていた小留知先生の死後、彼女の来し方に気持ちを飛ばす教え子の実山さんがいる(「イラクサの庭」)。製函という仕事を丁寧に誠実にこなす田辺さんと、その同志ともいうべき機械いじりの名人・青島さんがいる(「河岸段丘」)。尾名川の濁流に息子を奪われた、書道教室を営む年の離れた夫婦がいる(「送り火」)。昔ながらのステレオのあたたかな音色にこだわるレコード店主・蓮根さんがいる(「レンガを積む」)。欲のない中華料理店主・安田さんがいる(「ピラニア」)。そして、彼らの日々の営みにつきあって、心をざわつかせたり、震わせたり、明るくしたりする“わたし”がいる。

それらの短篇を、堀江さんは柔らかな語り口で手渡してくれる。物語はある情景からゆっくりと滑り出し、出てくる人物の人となりや、置かれた状況、かつて起こった出来事などは、語られるべき時が来るまでひっそり行間で身を潜めているといった風。そしてその時が来ても、これみよがしに立ち上がったりしない。物語の中にしっくり馴染むよう静かに滑り入ってくるのだ。やがて語り終えられるや、物語は遠くから波のように寄せ返してきて、読み手の気持ちを丸ごとさらっていく。

そう、堀江さんの物語る声は、まるで「スタンス・ドット」の店主が尊敬する元プロボウラー、ハイオクさんが投げる球が作り出す音のようなのだ。ピンが飛んだ一拍あと〈レーンの奥から迫り出してくる音が拡散しないで、おおきな空気の塊になってこちら側へ匍匐してくる。ほんわりして、甘くて、攻撃的な匂いがまったくない、胎児の耳に響いている母親の心音のような音〉。

そして、堀江さんが小説に向き合う姿勢もまた、ハイオクさんのボウリングに対するそれと共鳴しあう。〈自分の力やフォームにあわせたアプローチの距離と立ち位置を定めるために、床に埋められたスタンス・ドットのどこに足を置いたら最適かを見きわめること〉が肝要なボウリングというスポーツで、〈ところが、ハイオクさんはどんなに複雑なピンが残された場合でも、ぜったいに立ち位置を変えなかった〉〈ただひとつ確かだったのは、ハイオクさんの投げた球だけが、他と異なる音色でピンをはじく、ということだ〉。誰にも真似のできないハイオクさんのスタンス。変わらぬ立ち位置から放たれる、ハイオクさんのボールとピンが奏でる音色に、堀江敏幸の“小説の声”を重ねてしまうのは、わたしだけだろうか。

派手な事件が起きるわけではない。ごくごく単純な小説が七篇。でも、「河岸段丘」の田辺さんの考えに、わたしはうなずく。

田辺さんは、じっくりとその機械の個体差に合わせたペースで修理をする青島さんの姿勢に共感を覚えている。〈この辺が悪いで済ませてしまうのではなく、大雑把から徐々に問題の箇所へ、つまりピンポイントでよくないところへ手をのばしていく根気が欲しい。分解して組み立てられるくらいの、単純だが融通のきく構造が、機械にも、社会にも、人間関係にも欲しい〉〈単純な構造こそ、修理を確実に、言葉を確実にしてくれるのだ〉。そして、つけ加えさせていただくと、自然界を見れば一目瞭然であるように、単純な構造の連なりこそが美しいのである。

ひとつの世界を具体的に創り出すという小説家の行為は、神の技に等しい。しかし、我々の世界と違って、雪沼の神様の何と心優しいことか。憧れと郷愁を伴うほどに、胸に浸みいるジェントル・マインド。幾星霜(いくせいそう)のち、だからもしかしたらわたしは、花火大会の二人を、堀江さんが生み出した雪沼の住民だと思っているのかもしれない。そして彼らの話に耳を傾けたわたし自身も……。そんな倒錯もまた小説を読む歓びなのだということは、言わずもがなでしょうけれど。

【この書評が収録されている書籍】
そんなに読んで、どうするの? --縦横無尽のブックガイド / 豊崎 由美
そんなに読んで、どうするの? --縦横無尽のブックガイド
  • 著者:豊崎 由美
  • 出版社:アスペクト
  • 装丁:単行本(560ページ)
  • 発売日:2005-11-29
  • ISBN-10:4757211961
  • ISBN-13:978-4757211964
内容紹介:
闘う書評家&小説のメキキスト、トヨザキ社長、初の書評集!
純文学からエンタメ、前衛、ミステリ、SF、ファンタジーなどなど、1冊まるごと小説愛。怒濤の239作品! 560ページ!!
★某大作家先生が激怒した伝説の辛口書評を特別袋綴じ掲載 !!★

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雪沼とその周辺 / 堀江 敏幸
雪沼とその周辺
  • 著者:堀江 敏幸
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(206ページ)
  • 発売日:2007-07-30
  • ISBN-10:4101294720
  • ISBN-13:978-4101294728
内容紹介:
小さなレコード店や製函工場で、時代の波に取り残されてなお、使い慣れた旧式の道具たちと血を通わすようにして生きる雪沼の人々。廃業の日、無人のボウリング場にひょっこり現れたカップルに… もっと読む
小さなレコード店や製函工場で、時代の波に取り残されてなお、使い慣れた旧式の道具たちと血を通わすようにして生きる雪沼の人々。廃業の日、無人のボウリング場にひょっこり現れたカップルに、最後のゲームをプレゼントしようと思い立つ店主を描く佳品「スタンス・ドット」をはじめ、山あいの寂びた町の日々の移ろいのなかに、それぞれの人生の甘苦を映しだす川端賞・谷崎賞受賞の傑作連作小説。

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初出メディア

新潮

新潮 2004年2月

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