前書き

『山崎正和の遺言』(東洋経済新報社)

  • 2021/06/20
山崎正和の遺言 / 片山 修
山崎正和の遺言
  • 著者:片山 修
  • 出版社:東洋経済新報社
  • 装丁:単行本(352ページ)
  • 発売日:2021-06-25
  • ISBN-10:4492223991
  • ISBN-13:978-4492223994
内容紹介:
昨年8月逝去した日本を代表する知性・山崎正和氏へのロングインタビューや、キーパーソンの貴重な歴史的証言を基にした初の本格評伝

はじめに

山崎正和さんから仕事を申し付けられたのは、いまから3年ほど前のことである。

山崎さんは、「知」のプラットホーム「サントリー文化財団」の生みの親である。「文化財団についてまだ喋っていないことがある、ついては手伝ってほしい」といっておられると、旧知の文化財団専務理事の今井渉さんから相談を受けた。断るわけにはいかない。それから半年以上経ったある日、「先生が喋るとおっしゃっているからきてほしい」と連絡があった。

2019年5月27日、宝塚の山崎さんの住まいにうかがい、2時間以上にわたって話を聞いた。その年の暮れ、東京で再び山崎さんに会うと、「これは、あなたの本として執筆してほしい」と、突然いわれた。一瞬、時が止まった。呆然とした。「ムリです。どう書いたらいいかアイデアもありません」「いや、あなたの思った通り書いてくださって結構です」――そんな会話になった。

山崎さんは、一度いわれたことを簡単にひるがえすような人ではないし、思いつきで喋る人でもない。

しかし、私は学者でも研究者でも、まして弟子でもない。一介の物書きに過ぎない。主に日本企業をテーマにしてきたフリーのジャーナリストである。できるだろうか。

確かに、山崎さんとは45年近い付き合いがある。あれは、いつのことだったか。取材ではじめてお会いした頃の話だと思う。妙にささいなことを覚えている。

ホテルのレストランで、一緒に昼食をとることになり、「ビールでも飲みましょうか」となった。山崎さんは、ハーフ&ハーフを注文され、ビールをコップの半分ほど注いだうえ、黒ビールを流し込んだ。いまでこそ珍しい飲み方ではないが、70年代のはじめには目新しかった。だから、私はこんなハイカラな飲み方があるのかと驚いた。さすがアメリカ留学経験者だという印象をもった。山崎さんは、「ハーフ&ハーフはねぇ……」と、ひとくさり話をされた。

初対面から3年後だったか、1975年から76年にかけて山崎さんと『週刊ポスト』の連載企画で一緒に仕事をすることになった。1960年代を〝オンリー・イエスタデイ〟として描くことはできないでしょうかと『週刊ポスト』から持ちかけられた山崎さんは、「いや、現代史はむずかしいんだよ。僕は近代までやっている。森鷗外まではやっているけど……」と躊躇されたが、一週間ほどして、「やりましょうか」と編集部の日置徹さんに電話をかけてきた。これが、後に『おんりい・いえすたでい ’60s』(文藝春秋刊、1977年)の著作となる。

「歴史家でない人間が歴史について何か書けるとすれば、現代史だけです。私の見方に間違いはあるかもしれない。トレーニングを受けた歴史家のような客観性は持ち得ないかもしれない。けれど、同時代史なら何とかやってみようと始めました」と、『舞台をまわす、舞台がまわる――山崎正和オーラルヒストリー』(御厨貴/阿川尚之/苅部直/牧原出編、中央公論新社刊、2017年、206頁)の中で、その経緯について山崎さんは語っている。

山崎さんにしては珍しく、連載は全編口述筆記で行うことになり、私が下書きを担当することになった。私は当時、フリーの身で『週刊ポスト』のアンカーをしていた。37歳だった。山崎さんは43歳で、新進気鋭の学者だった。

よく知られているように、山崎さんの頭の中は一体どうなっているのかと思うほど、口述を録音して文字に起こせば、そのままきれいな原稿に仕上がる。四百字詰め原稿用紙が頭の中に刷り込まれているに違いない。まだ、ワープロのない時代である。原稿に沿って内容を裏打ちする事実や事柄、エピソードを新聞、週刊誌、書籍などから拾ってきて、しかるべき場所に挿入し、時代の気分、空気を伝えた。一回分の連載原稿に5本から8本ほど入れたと思う。材料を求めて大宅壮一文庫に通った。図書館にもいった。

山崎さんは、ただ口述するだけではなく、60年代すなわち「オンリー・イエスタデイ」の事柄をめぐって、「あなたは、そのとき、どうしていたの?」「どう感じたの?」「これについては、どう思う?」と質問された。満足した答えが得られないとなると、「なぜ」を連発した。いい加減では、許してもらえなかった記憶がある。山崎さんは、このときをこんなふうに回想された。

「のちになって彼は、その作業が(その間)ずっと勉強になっていた、文章とはこういうふうにまとめるものだとわかったといって、私を喜ばせてくれました。もちろん、それはお世辞も半分でしょうが」(『舞台をまわす、舞台がまわる』同頁)

とんでもない。あんな幸福な勉強の時間はなかった。しかも、山崎さんは「結局それがあったから、のちの『柔らかい個人主義の誕生』が書けたのです」(同頁)とおっしゃっているのだから、もう恐悦至極といわなければならない。

 

45年におよぶ付き合いというと、よほど濃い人間関係があったように思われるが、そんなことはない。だいいち、私は山崎さんの自宅に遊びにいったことがない。

つまり、べたべたした関係は皆無だった。むろん仕事が終われば、食べたり、飲んだりすることもなかったわけではないが、基本的に仕事以外に私的な付き合いはなかった。必要以上に距離を縮めることはなかったし、毎年必ず会っていたということもなかった。しかし、不思議なことに、ひとたび会えば、すぐにスイッチが入り会話がはずんだ。山崎さんに会うのが楽しみだった。山崎さんがいうところの「社交」だったのかもしれない。

仕事の関連でいうと、山崎さんがかかわられていた海外向け政府広報の英文雑誌に指名により幾度となく日本企業の記事を書いてきた。また、文化財団が発刊した論壇誌『アステイオン』に数度、書いてもきた。そんな風につかず離れずの関係がずっと続いた。

「私は山崎正和の最大の作品はサントリー文化財団にほかならないと思っている」(『別冊アステイオン それぞれの山崎正和』サントリー文化財団・アステイオン編集委員会編、CCCメディアハウス刊、2020年、「山崎正和とダニエル・ベル」280頁)

これは、文芸評論家の三浦雅士さんの言葉である。そうである以上、文化財団を書くにあたり、真正面から山崎さんについて論じなければならない。

新型コロナウイルスへの警戒感が高まる直前の2020年2月21日、山崎さんは「何でも話しますから……」とおっしゃって、東京で再び2時間にわたるインタビューとなった。その後、食事をご一緒しながら、さらに2時間ほどお喋りをした。病気がちだと話されたが、山崎さんは、出てきた料理をすべてペロリと完食された。

別れ際に、「お世話になりました。また、近々会いましょうね」と、山崎さんは例の優しい笑顔を浮かべていわれた。いまになってみると、何気なくおっしゃった「お世話になりました」という言葉が気になるが、コロナ禍により、それが最後の言葉になってしまった。

それにしても、学者でも研究者でもない私がなぜ、この重い仕事を仰せつかったのだろうか。それは、私の内面においていまも謎である。本書の中に、その理由を見つける読者がいたとすれば、仕事を果たしたことになるのかもしれない。
山崎正和の遺言 / 片山 修
山崎正和の遺言
  • 著者:片山 修
  • 出版社:東洋経済新報社
  • 装丁:単行本(352ページ)
  • 発売日:2021-06-25
  • ISBN-10:4492223991
  • ISBN-13:978-4492223994
内容紹介:
昨年8月逝去した日本を代表する知性・山崎正和氏へのロングインタビューや、キーパーソンの貴重な歴史的証言を基にした初の本格評伝

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