書評
『ジャコメッティ―キューブと顔』(PARCO出版)
ジャコメッティは不思議な彫刻家である。あくまでも人間に、人体にこだわるかぎりにおいて古典的性格を示しながら、同時に古典彫刻の本質であるマッスやヴォリュームを否定するかのように、その作品はどんどん細く小さくなっていった。鉛筆みたいに細くなった人間の姿に衝撃を受けた人々は、その衝撃をみずからに説き明かすようにたくさんの言葉を紡ぎ出した。サルトルの評論が、その典型的な例である。
ところが彫刻家は、一九三四年、《キューブ》というタイトルの明らかにマッスとヴォリュームに関わる作品を何点か制作していた。これはいったい何なのか、そしてなぜ制作されたのか。本書は、この問いに答えようとする、というよりこの問いそのものを存立させようと繰り広げられる異色の芸術論である。
《キューブ》とはいえ、実際には立方体(キューブ)ではない多面体の作品群が、前年の父親の死に密接に関係するというのが著者の論述の根本である。要するに、それは彫刻家の父親の頭像にほかならないのだが、なぜそれには顔がないのか、なぜ多面体という抽象的な形態をとっているのか、著者はそのことを問題にする。サルトルがジャコメッティの作品について提起した問いが、「人間を石化することなく、いかにして石で人間を造形するのか」であったとすれば、著者は、「人間を表象することなく、いかにして人間で石を造形するのか」と問うだろう。
デューラーの有名な《メレンコリアⅠ》のなかのあの多面体も関係する。ミニマリズムにも触れられる。決してやさしい文章ではない。しかしここにあるのは、強靭な思考である。きわめて斬新な着眼と、それを了解させるに足る思弁の力である。サルトルの亜流ではないジャコメッティ論に、われわれはようやく接しえたといえるかもしれない。「顔」にことのほかこだわる著者の問題意識が、今後どのような展開を見せるか気になるところだ。
【この書評が収録されている書籍】
ところが彫刻家は、一九三四年、《キューブ》というタイトルの明らかにマッスとヴォリュームに関わる作品を何点か制作していた。これはいったい何なのか、そしてなぜ制作されたのか。本書は、この問いに答えようとする、というよりこの問いそのものを存立させようと繰り広げられる異色の芸術論である。
《キューブ》とはいえ、実際には立方体(キューブ)ではない多面体の作品群が、前年の父親の死に密接に関係するというのが著者の論述の根本である。要するに、それは彫刻家の父親の頭像にほかならないのだが、なぜそれには顔がないのか、なぜ多面体という抽象的な形態をとっているのか、著者はそのことを問題にする。サルトルがジャコメッティの作品について提起した問いが、「人間を石化することなく、いかにして石で人間を造形するのか」であったとすれば、著者は、「人間を表象することなく、いかにして人間で石を造形するのか」と問うだろう。
デューラーの有名な《メレンコリアⅠ》のなかのあの多面体も関係する。ミニマリズムにも触れられる。決してやさしい文章ではない。しかしここにあるのは、強靭な思考である。きわめて斬新な着眼と、それを了解させるに足る思弁の力である。サルトルの亜流ではないジャコメッティ論に、われわれはようやく接しえたといえるかもしれない。「顔」にことのほかこだわる著者の問題意識が、今後どのような展開を見せるか気になるところだ。
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