大河ドラマで描かれる宮廷サロンがよくわかる!清少納言『枕草子』の楽しみかた
当時の宮廷生活のありようが、リアルに伝わってくる、随筆文学の金字塔
日本文学の長い歴史のなかで、特に平安時代は女性の書いた文学の花盛りであった。紫式部の『源氏物語』はいうまでもないことだが、随筆文学の金字塔ともいうべき、清少納言の『枕草子』もまた、まったく違った意味で、すばらしい達成の一つであった。ただ、『源氏物語』が当時の宮廷貴族世界を舞台とする「創作」であったのと対照的に、『枕草子』は、どこまでも清少納言の見聞きした貴族社会の実相をありのままに書き残した記録で、その意味で当時の宮廷生活のありようが、いきいきとリアルに伝わってくる。
ただし、清少納言という人の視線は、徹頭徹尾「女性から見て」のそれであって、そこからまた、当時の男達のありさまなども、まことに呆れるほど現実的に正直に活写されている。それゆえ、これをよく嚙み分けて、じっさいどんな情景だったのだろうか、とあたかもドラマの一場面を想像するようにして読んでいくと、ほんとうに生々しく面白い。
しかも清少納言は、ユーモアのセンスも豊かな人であったと見えて、ついつい引き込まれて笑ってしまうような場面もあちこちにある。それなのに、よく考えずに表面の語義だけを「わかった」というだけの読み方では、せっかくの面白さが味わえないにちがいない。読むについては、豊かな想像力を働かせて、場面や、その空気をまでも脳裏に再現しながら読んでいくと、興趣まさに尽きぬものがある。そういう「場面の再現」の手助けとして、私はこの本を書いたのである。
以下、本書から一部を抜粋してお目にかける。
貴族サロンの優雅な思い出
「夜中暁(あかつき)ともなく、門(かど)もいと心かしこうももてなさず、なにの宮、内裏(うち)わたり、殿(との)ばらなる人々も出(い)であひなどして、格子(かうし)などもあげながら冬の夜をゐ明かして、人の出(い)でぬるのちも見いだしたるこそをかしけれ。有明(ありあけ)などは、ましていとめでたし。笛など吹きて出でぬる名残(なごり)は、いそぎてもねられず、人のうへどもいひあはせて歌など語り聞くままに、寝入りぬるこそをかしけれ。」(原文、日本古典文学大系『枕草子』第一七九段)(現代語訳)
――夜中になっても暁になっても、門をさまで厳重に締めるということもなく、何とかの宮様方の女房だとか、内裏(だいり)勤めの御方だとか、しかるべき殿がただとか、みなどこかのお邸(やしき)に参り集まって、格子(こうし)の蔀戸(しとみど)なんかも閉めずに上げたままにしておき、長い冬の夜をゆるゆると物語などして過ごし、朝になって男の人たちが出ていってしまっても、そのあとをいつまでも見送ったりしているのは、気がねがなくてほんとに気持ちが良い。
明け方の空に月が出ている、などというのは、まことに申しぶんのない情景である。素敵な男の方が、帰りがけに笛など吹きすさびながら去っていったりすると、その心の名残のままに、女たちは、どうしてもすぐには寝られるものでない。そこで、みんなであの方この方の噂話などしながら、そういえば、そのときこんなお歌を詠まれたそうよ、などと語ったり聞いたりしながら、いつのまにか眠ってしまった、なんてのはほんとに気持ちの良い思い出である。
なんだか、その場に、自分も居合わせたかったなあと思わせてくれるような、平安朝の貴族サロンの雰囲気である。清少納言にとって、こういう空気こそは、理想の世界、いわば生きながらの極楽ともいうべきところがあったのにちがいなかろう。
さて、この笛を吹きながら帰っていった貴公子というのは、誰であろう。美男で知られた藤原実方(さねかた)であろうか、それとも清少納言にとって最大のアイドルだった藤原齊信(ただのぶ)その人でもあったろうか。想像はそれからそれへと広がって、しばし美しい夢を見せてくれるのである。
*日本古典文学大系『枕草子』(岩波書店)
本稿は、『枕草子の楽しみかた』(祥伝社新書)「はじめに」「第10講」をもとに編集
[書き手]林望