情と理の文体から匂いたつ豊饒の「謹訳」完結
数学や統計学には既知データを基にして未知の数値を割り出す方法として内挿(インターポレーション)と外挿(エクストラポレーション)という二つの方法がある。内挿がデータ間の未知数を探るのに対し、外挿はデータの外側に予想される数値を求める。外国語の翻訳ないしは古典の現代語訳は原則的には内挿に属する。原テクストという既知のデータの相互間の未知をなくしていくのが常道だからである。ところが、ときとして翻訳にも外挿を用いなければならない場合が出てくる。つまり、テクストに書かれていない、言外の意味をくみ取らなければ、解釈も翻訳も一歩も先に進めなくなるような瞬間が訪れるのだ。こうした瞬間が非常に多いのが『源氏物語』の翻訳だ。なぜなら、一番肝心なところ、たとえば光源氏のセックスに関する部分は「書かれていない」からだ。ゆえに翻訳者は内挿を捨てて外挿を取ることを余儀なくされる。では、翻訳者はその外挿において、どのような態度を採用すべきなのだろうか?
想像力を駆使する? それもありかもしれない。円地文子訳『源氏物語』などはこの典型で、それはそれなりに興味深いものがあったが、しかし、もっと別のやり方はないのか?
林望は国文学者であるゆえ、想像力による外挿は採らない。あくまで合理性にこだわるのである。与えられたデータ(『源氏物語』の語彙(ごい)、語法、敬語法、風俗習慣、文体、句読法など)をすべて頭に入れた上で合理的な演算を行い、それによって範囲外の未知のデータ(言外の意味)を割り出してゆくのである。これを「合理的外挿」と呼ぼう。小説家訳には決定的に欠けていたものだ。
ところで、こうした「合理的外挿」にこだわった現代語訳は林望訳が初めてではない。『源氏』研究者による全訳というのもいくつか存在しているからだ。だが、林望訳はこれらのいわゆる「学者訳」を超えた段階に達している。それは、合理的外挿が、『源氏物語』の作者になりきって思考するレベルまで到達しているということだ。林望訳で読むことで、初めて光源氏のセックスの実態があきらかになるところさえある。
しかし、林望訳の新しさはそれだけではない。「古典的テクストの合理性」を坩堝(るつぼ)で溶かすことで生じたリキッドを「現代的テクストの合理性」という鋳型に流し込むという画期的な作業を行っている点である。
『源氏物語』のような古典的テクストにおいては、敬語法や主語の省略、幾重にも錯綜(さくそう)した複文などはその時代の合理性に基づいていた。しかし、それをそのまま現代的テクストに移植しようとすると逆に不合理になる(例・谷崎潤一郎訳)。よって、古典的テクストにおける合理性とは別の、しかしあくまでそれと等価になるような現代的テクストの合理性が求められなければならない。かくて、林望訳では、問わず語り的な語りに替えてニュートラルなナレーションが採用され、敬語も必要最小限に留(とど)められ、また欠けていた主語も復活させるという大胆な試みがなされる。にもかかわらず、そうしたニュートラルな文体からは『源氏物語』の原文にあった匂いたつような豊饒(ほうじょう)さが現れてくる。合理的で、かつ端正で品のある文体。「謹訳」とは言いえて妙である。
小説家訳にも学者訳にも不満を持っていた源氏ファン待望の情理兼ね備えた名訳。完結により、忍耐力のない現代の読者にも『源氏物語』の完読が可能になったようである。
【新版】